恐怖大公の平穏な日常
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30 変態夫婦の心理的影響が心配される件について
なんなの、あの変態夫婦。っていうか、クリスってあんな趣味の女性だったっけ?
まさか俺のせいであんな病んだ、とか言わないよな? 大丈夫だよな?
それともあれって、一般許容範囲なのかな?
……うん、落ち着いて考えてみれば、そうかもしれない。魔族にとっては……。
それでも背筋に震えが走ったのは、一瞬、自分が今の彼女の愛情の対象だったら、と想像してしまったためだ。決して帰路につく竜の背の上が、寒かったからではない。
なにせ魔族は寒暖を判断はしても、それによって暑いだの寒いだのとはたいして感じないのだから。
それに、ジブライールにとっては許容範囲ではないかもしれない。だって、昨日の謁見の話でも動揺するくらいだもん。
「意外でした……閣下が女性から強引にされるのが、お好きだなんて……」
「いや、違うから。俺にはあんな変態趣味はないから!」
ジブライールは俺のやや後方に立って、外出後ようやくスケッチブックに向かっている。
どうやら今、竜の手綱を取る俺の後ろ姿を描いているらしい。
往路は別の竜を操作していたし、現地には着くなり這い蹲って狭い洞窟を進んだり、剣に警戒したりしていたので、持っては来たもののスケッチブックを開く間もなかったようだ。
「ですが閣下もかつては彼女と、あのようなお戯れをなさっていたのでは……?」
鉛筆が紙をこする音に混じって、ジブライールのため息にも似た声が届く。
「まさか! 俺はクリスとはごく普通に……」
待てよ。
普通に、なんだと説明すればいい?
そもそも俺の認識では、クリストナとは付き合ってもいなかったのだ。当時の他の女性たちと同様――ただ、何度か床を共にしただけで……駄目だ、ジブライールにこんな最低なこと、言えない。
しかし今の夫がそうだからといって、かつての俺――さらに今の俺までそういう性癖だと思われてはたまらない!
そうだとも。女性に乱暴にされて喜ぶような変態は、あの男と魔王様、二人もいれば十分ではないか!
そこはきっちり否定しておかないと。
「とにかく、俺の性癖はごくごく普通だ。むしろどちらかといえば……ん?」
背中にふと、手の感触を感じて振り返る。
右手をぴっとりと俺の背に押しつけた、ジブライールの姿が間近にあった。
「あ、すみません!」
彼女は慌てたように、飛び退く。が。
「あっ!」
ここでドジっ娘発令!
副司令官ともあろう者が、竜の背のトゲに足をとられ、転びかけているではないか!
とっさに片手で彼女の手を取り、抱き寄せる。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます。あの……」
ジブライールは俺の腕の中で、真っ赤になった顔の下半分をスケッチブックで隠し、視線を逸らしてこう言った。
「お、お背中を見ていたら、つい、ふ…………触れたくなってしまって……も、申し訳……ありません……」
なんだろう!
クリスの後だから余計なのかもしれない! 女性の照れる姿が、なんだかとっても新鮮なんだけど!
やばい、ちょっと今グッときてしまった。
待て俺。待て、俺!
一時の欲望に流された結果で、今さっき反省ひとしきりだったではないか!
「気をつけてくれ」
自分を律するため、そっけなく言ってジブライールの体を放し、前を向いた。
「申し訳ありません……」
落ち込んだのが、声で知れる。責めるつもりはなかったのだが……。
「み……三日も閣下のお側にいられると思うと……あまり、眠れなくて……それで、その……自分でも無意識に……」
寝不足のせいで本能が抑えがたい、と言っているように聞こえた。言い訳なんていうのも珍しいから、本当にぼんやりしているのかもしれない。
「…………別に背中くらい、いくらでも触ればいい。絵を描くのに必要だというんなら……」
いや実際、別に絵を描くのに触れるのが必要だとか、そんなわけないよね! 思ってもないんだけど!
「……はい!」
ジブライールの返答は、やや弾んでいた。
なんだろうほんと、この、俺の言葉に一喜一憂する感じ。
だいたいなんだって、他の者がいる時にはあんな仕事のできる副司令官って感じで、隙も全くなさそうな感じなのに、俺の前ではこんなしおらしくていじらしい感じなの?
普段とのギャップがありすぎるだろう。
「あ……あの……。失礼、します……」
ジブライールの手が、再び俺の背に当てられる。優しく、そっと。
右手に続き、左手も。この時点で俺は疑問を感じた。さらに……。
「少しの間だけ……私にも、お許しください」
ジブライールはそう言って、あろうことかピッタリと――手だけではなく、身体全体を押しつけてきたのだ。
女性らしい柔らかい感触が、背中ごしに伝わる――やばい。ジブライールは、出るところは出ているのだ。
「ジブライール、そこまでは――」
許可していない、と言うために振り向いて、色を含んで潤む瞳とかちあった。
上目遣いとか、マーミルにされてもなんとも思わないのに、ジブライールが相手だと……!
とっさにその細い腕を掴み――
「すみません、でも私――あっ」
少し乱暴に引き寄せ、竜のうなじに華奢な身体を押しつける。
「ごめんなさい! でも私、彼女がうらやましくて――」
俺が怒ったと思ったのか、ジブライールは必死に謝罪と言い訳を口にする。
「ジブライール、煽るつもりがないなら――」
「そんな――私……」
頬に触れると、彼女はピクリと震え、口を噤んだ。
その、しっとりと潤んだ葵色の瞳、恥じらいのためかうっすらと朱に染まる頬、濡れた薄桃の唇、乱れた髪――慌てふためき、脅えの色も認められるその上目遣いも含めて、彼女のすべてが煽情的に響いてきた。
やばい。あの変態夫婦にあてられたのか、俺――
「こんなことは止めないと――」
自分勝手に諫める言葉を口にしたところで、自制のための枷にはなってくれそうになかった。
わかっている。ジブライールにそんなつもりがないことは。
だがかえって、その従順な態度に嗜虐心がそそられる――
俺は彼女の身体を竜に押し止め、右手で片腕の自由を奪い、左手を細いうなじに差し込む。
今一度、ジブライールの全身が大きく震えた。
「ジャーイル様……!」
腕の拘束を解き、俺の名を呼ぶその唇を撫でる。そこは彼女の全身と同じで、柔らかく、暖かい――
「嫌なら、抵抗してくれ。でないとこのまま――」
微動するその艶やかな唇――ジブライールの吐息と、俺の吐息が混じり合う。
その柔らかな感触を食もうとした途端――
「 お に い さ ま ――!!」
……。
…………。
………………。
え?
「 ぅ お ぉ に ぃ い さ ぁ ま ぁ ーーーー!!」
……空耳ではない、マーミルの声!?
耳をつんざく怒声にも似た声に、俺は我に返る。
慌てて周囲を見回したが、ここはやはり空の上――妹の姿はどこにも見受けられない。
なのに――
「お兄さまー、なんか、落ちて、きました、わよー!!!」
紛れもない、妹の叫びが鼓膜を叩いた。
「マ……」
「きぃくぅおえぇてぇまぁすぅーー? ぅおぉにぃいーさーまーー!!」
声は下から響いてきた。
竜の首向こうを見れば、そこには上空高く翻る我が紋章旗が――
つまり――
俺は竜の背から、恐る恐る下をのぞき込む。
眼下に広がっていたのは、紛れもない我が城――そして我が妹が、前庭でぶんぶんと手に持った何かを振り回しながら、大声を張り上げている姿だった。
いつの間に、こんなところまで!
「あっ! お兄さま! 何してるの、早く降りていらしたらー!?」
妹の姿を見て、一気に体温が下がるのを自覚した。思わず生唾を飲み込む。
ホントに! 今、俺は……こんなところでいったい何を――!
「悪い!」
俺はジブライールから慌てて身体を離した。
だが彼女は見るからに呆然とした様子で、竜の首に背を預けたまま、微動だにしない。
「立てるか?」
そう言って、手をさしのべてみた。
一瞬、ジブライールはビクリと身体を震わせたが、俺の手をそっと握り返し、やや頼りない様子で立ち上がる。
「悪かった……怖い思いをさせたな」
「いえ……そんな、こと……」
否定を口にはするが、声はかすかに震えていた。俺に怯えているのは間違いあるまい。
ベイルフォウスには優しくしろと言われたのに、乱暴だったし……って、違う、そうじゃない! 別に俺は、あんなアドバイスなんて……!
それに……。
「あっ!? 私のスケッチブック!」
ジブライールは突然目を見開き、自分の腕からスケッチブックが姿を消しているのに気づくと、周囲をあたふたと探し出す。
そういえば確か……俺が彼女を押し倒した時に、目の端を何かがかすめていったような……。
待てよ。
「もしかして、マーミルが持っているのがそうじゃないか?」
妹は落ちてきた、といっていたし、振り回しているのはどう見ても四角い紙の束だった。
「えっ! あっ……!」
ジブライールは地上をのぞき込み、表情を強ばらせる。
「マーミル様、駄目です!」
言うや彼女は止める間もなく、竜の背から宙へと身を投げ出した。
「ジブライール!?」
いや、別に大丈夫なのはわかっている。ジブライールは公爵だ。竜の背から飛び降りたところで、なんのことはない――でも、急にだとびっくりするよね!
俺は慌てて竜を前庭に降下させ、妹とジブライールの元へ歩み寄る。
するとそこには泣き崩れるように、顔を両手で覆って膝をつくジブライールと、スケッチブックを凝視しながら表情を強ばらせている妹の姿があった。
「……マーミル? ジブライール?」
「……お、にい……さま……」
俺の声かけにマーミルは蒼白な顔をあげる。片やジブライールは瞬時に立ち上がってマーミルに飛びかかり、その手からスケッチブックを奪い取った。それから鬼気迫るしぐさで、開いていたスケッチブックをぱたりと閉じてしまう。
「どうした、二人とも……」
その異様な雰囲気に、若干身構えてしまった。
「お兄さま……ジブライール閣下の、絵……」
「な……なんでもありません! マーミル様、なんでもありませんよね!?」
ジブライールは俺とマーミルの間に入り、中腰になって妹の肩をつかむ。
「なんでも……ありませんよね……」
表情は見えないが、その時のジブライールの背中はとても小さく見えた。なんだか声も震えていたし、っていうか、涙声に聞こえたし。
「はっ! そ、そうね、なんでもないですわ!」
妹は急に思い立ったように、不自然に否定を口にする。
「ところで、あの、お兄さま!」
「なんだ?」
「ジブライール閣下をすこし、お借りしてもいいですかしら?」
「え? ジブライールを?」
この流れで?
ただでさえ、今日はスケッチしている時間がなかったのに、それをさらに減らすとなると……。
「いや……それはどうだろう。ジブライール、どうだ?」
「私は……」
「ジブライール公爵!」
ジブライールが何か言うまでに、マーミルが力強くその名を呼んで、自分の肩を握りしめる彼女の腕をがっしりと掴む。
「大丈夫! 私にいい考えがありますの! お任せいただけません?」
妹は深くうんうんと頷き、そう言った。
「マーミル様……」
ジブライールは息を飲んだようだった。
「……お任せ、します……」
弱々しくそうつぶやき、それから彼女はこちらを気遣わしげに振り向いたのだ。
「マーミル様をお借りしてもよろしいでしょうか、閣下」
「……二人ともがそう望むのなら……」
俺が許可を与えると、マーミルはジブライールの手をむんずとつかみ、居住棟を目指してずんずん離れていってしまった。
……え、なに、今の……。なに、あの二人の様子……。
どう考えても、マーミルがジブライールのスケッチブックの絵を見たのが原因だよな?
『お兄さま……ジブライール閣下の、絵……』
マーミルの、あの反応……。なんであんな、若干ひいたような、それどころか恐怖さえ感じるような、あんな反応だったの。
え……正直いうと、俺はジブライールの絵の出来には期待してはいなかった。たぶん、上手ではないだろう、と、そう思ってはいた。
けれどどうせ別に家族間だけで鑑賞されるのだろうし、そもそもあのリリアニースタのことだ。絵の完成度よりむしろ、娘が俺の側にいられる時間をすこしでも作る、そういう狙いでジブライールを絵の制作者に指名したのだと、信じてやまなかった。
だからジブライールがずっとスケッチブックで写生ばかりしていることにもつっこまなかったし、できた絵を見せろというつもりもなかったのだ。
だけど――今の、あの、マーミルの反応……。
え、俺ってどんな風に描かれてるの?
俺って……っていうか、ジブライールの絵って、どんななの!?
その日は割と夜遅くまで仕事をしていて、夕食は一人でとったのだが、結局ジブライールは俺の側に帰ってこなかった。せっかくいただいたお時間を無駄にして申し訳ありません、というような詫びの手紙が届けられただけで――
こんな夜遅くまで、マーミルとの話がずっと続いているはずはないだろう。
やはり、昼間の俺の態度に驚いたのだろうか?
なんだって、あんなことをしてしまったんだろう。自制がきかず、ジブライールを怖がらせて――
昔のことを思い出したせいだろうか? それとも、変態に影響された?
そうかもしれない。このところ刺激がなかったところに、あんなぶっ飛んだ夫婦を間近で見てしまったのだから、それで――いいや、言い訳はよそう。
俺は昼間の己の行動をなぞり、心の底から反省した。
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