2016年06月30日
竜の支配者
女王陛下と皇太子殿下
1.正午の鐘
正午の鐘の音で、サディーナはようやく書類の束から視線をあげた。
少しだけのつもりが、もう三時間も集中していたことを知る。
「しまった。やらかしちゃったかしら」
その独り言を聞きつけて、側にいた中年の秘書官が眉をひそめた。彼は彼女がおもしろがって、こうしたくだけた物言いをすることを、つねづね快く思っていなかった。
「いいえ、殿下」
無愛想に、けれど即座に応じる。
「皇太子殿下を待たせてしまったのではない?」
「いいえ、摂政殿下。ご心配には及びません」
私がついているのだから失敗などさせるはずがない、という言外の意味を、彼女は彼の表情から読み取った。
「けれど、船はずいぶん前に着いたのではなくて?」
オーザグルド帝国の皇太子を乗せた船が入港するという知らせを受け、宰相を港に出迎えにやったのが三時間前のこと。そうして、彼女はいつでも皇太子を歓待できるよう、明日の打ち合わせを中断して、資料に目を通しながら彼の到着を待っていたのだ。
「その通りでございます、殿下」
「だったら……」
「いいえ、殿下。皇太子はまだ、港においでなのです」
「バカな……知らせは、もう三時間も前のことなのよ? 何か問題でもあったの?」
今度は彼女が眉をひそめる番だった。
港からこの王宮まではどうゆっくり馬車を走らせても、三十分もあれば着く。まさか、他国の皇太子が下町の店に寄り道をしているというわけでもあるまい。
「問題といいましょうか……」
秘書官が珍しく言葉を濁す。
「宰相閣下の遣わされた伝令によりますと、皇太子殿下は船酔いがひどく……馬車にも乗れないご様子のため、もう暫くお待ちいただきたいと」
「船酔い……ですって」
サディーナは書類の束を机の上に投げ出し、豪奢な椅子から立ち上がった。
「船酔いで三時間も港に足止め? そんなバカな話、聞いたことないわ」
つかつかと歩き出した主を、秘書官は慌てて追いかけた。
「殿下! どちらへ行かれるおつもりです?」
「決まっているでしょう。港へよ。その軟弱な皇太子を迎えに行ってくるわ」
「お待ちください、サディーナ姫!」
言葉では制止しながらも本気で止めるつもりがないことは、その冷めた表情で明らかだ。
彼は主を部屋から出もせず見送った後、満足そうに頷いた。