古酒の隠れ家

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女王陛下と皇太子殿下

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2.武官の憂鬱

  アルシェード・グラフィラスは内心うんざりしていた。
 本来ならば、喜ぶべき状況なのはわかっている。なにせ、皇太子の護衛隊長を任じられたのだから。
 そうだ、本来ならば……

 彼の生まれたオーザグルド帝国は、完全なる絶対君主制の国だった。皇帝の機嫌一つですべてが裁可・不裁可される。

 貴族はいるが、身分はあってないようなものだ。
 なにせ皇帝の機嫌を損ねれば、数百年続いた名家であろうが断絶の憂き目を見るし、稀とは言え奴隷であっても幸運に恵まれれば、国家の要職につくことさえできる。
 実際、アルシェードもほとんど貧民層と呼んでいいような地区で育ったが、持ち前の強運(と彼は思っている)と人並み以上の運動神経と、何より生来の健康さのおかげで、近衛兵にとりたてられた上に二十七歳という若さで少将の地位にまで上り詰めたのだ。

 生まれ落ちた身分で一生が決まるという他の国では、まずあり得ないことだとわかっている。
 わかってはいるが……

 アルシェードはいつまでも開かない扉をにらみつけ、ため息をついた。
 普通なら皇太子の護衛団を取り仕切るとなれば、出世コースに乗ったようなもの、将来は安泰だ。だが同僚が誰もうらやましがらなかった事実を鑑みても、ことがそう簡単でないのはわかっている。
 なにせ、今も皇太子のフラマディン・アインアードときたら、もう三時間も前に港に着いたというのに、気分が悪いからと未だ御座船の自室にこもったまま出てこないのだから。
 錨を降ろしたとはいえ、船は揺れる。それなのに船から一歩も出ようとしないで、船酔いが治らないとはふざけた言いぐさだと思わずにはいられない。
 これが自分の兄弟か部下ならば、首根っこを引捕まえてでも部屋から引きずり出してやるのだが、相手が皇太子となればそうもいかない。

 そもそも、護衛団の隊長を務めているにもかかわらず、アルシェードはこの船旅の間中、一度も皇太子の近くにいられなかった。船に乗った初日にはもう、皇子は体調を崩して部屋にこもりっきりになってしまい、侍女たち以外は控えの居間にすら入室させてもらえなかったからだ。
「ルイザどの。皇太子殿下にお目通り願いたいのだが」
 この台詞を言うのは何度目だろう。そのたび、侍女頭のルイザがしかめっ面で出てきて、彼の申し出を拒否するのだ。今回もやはり、彼女はうんざりしたような表情を浮かべて、皇太子の寝室に続く控えの間から出てきた。

 ルイザ・フォルティナは皇太子の乳母として皇宮に召され、皇子が成長した今は侍女頭を務めている、中年の女性だ。皇太子が自分になついているのをいいことに、宮廷で大きな顔をしている彼女を、アルシェードは快く思っていなかった。
 もっとも、相手の方でも庶民上がりの少将を嫌っているのだろうことは、表情と態度をみていればすぐにわかる。
「少将どの。何度も申し上げているとおり、皇太子殿下はお加減がすぐれないのです」
「ルイザどの。こちらも何度も申し上げているとおり、すでに三時間近くも、ウィシテリア女王国の宰相閣下をお待たせしてしまっている。三時間も、だ」
 うんざりしているのはこっちだと、毒づいてやりたかった。

「ですから、宰相閣下には一度王城にお帰りいただくのがよろしかろうと、申したでしょう」
 なんだって、この女はこうも失礼なことを平気な顔で言えるんだろうか、と、アルシェードは眉をひそめた。友好国の宰相を相手に、こちらの都合で呼び出すまで、帰って待機していろという。そんなことを言えるものなら、自分で言えばいいのだ、と思う。
 さらにいうならウィシテリア女王国の宰相といえば、女王の夫君か父親であると決まっている。今の宰相は亡き女王の夫なので、次期女王の父だ。
 それほどの相手を三時間も待たすとは何事だろうか。これが逆なら、皇太子は相手の使者を無礼討ちにでもしかねないというのに。
 使者であるウィシテリア女王国の宰相は、温和な紳士だった。困ったような顔をしながらも、こちらの無礼を許して待ってはいてくれる。つい自国の王族と比較して、なんと人格者であることだろうと思わずにはいられない。

「そもそも、揺れる船に乗ったままで、しかも部屋にこもりっきりで、船酔いが治るわけがなかろう! 歩けないとおっしゃるなら輿でもなんでも用意して、外の空気をすっていただくほうが、よっぽど気分もよくなろうというものだ」
 もちろん、この主張も何度もしているのだ。けれどこの頑固なおばさんは、どうあっても彼の意見を聞き入れようとしない。
「検討はいたします」
 早口でそう言うと、ルイザはアルシェードの反論も待たずにさっさと中に入ってしまった。鍵をかける音が、いやに甲高く響く。

 くそばばぁが!
 アルシェードはそう怒鳴って扉を殴りつけたくなる衝動を、なんとか抑えた。
 しかし、このままでは事態は進展しそうにない。無理にでも押し入って、皇太子を連れ出すべきだろうか。
 もっともそうすると、彼は十中八九、今の地位と将来の出世をすべて諦めなければならないし、ヘタをすると不敬罪に問われて帰国後に死刑にされる危険がある。
 やっぱり体調が悪いとか理由をつけて、今回の仕事は辞退すべきだった、と、アルシェードは後悔していた。実際にはそんなことが不可能なのは重々分かっていたが、そう思わずにはいられなかったのだ。

「まったく、あなたのおっしゃるとおりね」
 背後からかけられた女性の声に、アルシェードは振り返った。
 廊下の向こうに黒いドレスを身にまとった、すらりとした女性が立っている。

「船に乗ったままで、船酔いが治るはずないわ。なのにどうして皇太子はお部屋を出てこられないのかしら?」
 頭から黒いヴェールを被って、髪も顔もはっきりは見えないが、若いのだろうことは声の張りからわかる。
「ごめんなさいね。立ち聞きなんかして。護衛隊長というのも大変だと思って」
 黒いドレスの女性は、そう言ってアルシェードに歩み寄ってくる。
「失礼ですが、貴女は一体どちらの」
「申し訳ない、グラフィラス少将。貴方の許しも得ず、このようなところまで来てしまって」

 急に男の声がして、彼はもう一度驚いた。よく目をこらしてみると、黒いドレスの女性の後に影の薄い男性がついてきている。
「こ……これは、宰相閣下」
 アルシェードは慌てて軽く腰を折った。
 その影の薄い男性こそ、もうかれこれ三時間もこの港で足止めを食わせてしまっているウィシテリア女王国の宰相、エルフォルト・シーモス公爵だったのだ。
「娘が皇太子殿下を直接お迎えにあがりたいというので、こちらに伺ったのですが」
 シーモス公爵は、そう言って人の良さそうな笑顔を浮かべる。

「宰相閣下の姫君……では」
「サディーナですわ。暫くのお見知りおきを」
 優雅にドレスの右端を持ち、膝を折ったその娘が名乗った名に、アルシェードは驚愕した。
 彼は皇太子がいったいなんのためにこのウィシテリア女王国にやってきていたのか、重々承知している。部屋にこもったまま出てこない当の本人や、いつまでも皇子のわがままをきくだけの侍女たちより、よほどだ。

「アル・ウィシテリア……女王陛下であらせられますか」
 彼は慌てて片膝を付き、そのまま上半身を折った。
 シーモス公爵の娘で喪服を着たサディーナという名の高貴な女性と言えば、たった一人――それは、このウィシテリア女王国の、若き女王であるはずだ。
「あら、女王位を継ぐのは明日ですから、今はまだ摂政ですのよ」

 ウィシテリア女王国では先代の女王が亡くなると、次期女王は半年の喪中を摂政として過ごす。サディーナの場合は、母王が病に伏した一年前からすでに摂政の地位にあったのだ。
 そして明日、先代の女王の喪が明け、彼女は十七歳という若さでウィシテリア女王国の女王という地位につく。その即位式に列席するために、皇太子はこうして船でウィシテリア女王国にやってきたのだ。もっとも、予定では数日前に到着しているはずが、皇太子の体調不良の影響で、到着がギリギリになってしまっていた。

「陛下、いえ、殿下自らお運びいただいたとは、なんとお礼を申し上げてよいか」
 本来なら待たせたお詫びを、といいたいところだが、一介の護衛隊長の身では軽々しく謝罪の言葉を口にするのもはばかられた。
 だいたいが近衛隊で少将の地位にあるというぐらいでは、自国でも貴族や王族と口を利く機会はほとんどない。今回にしても彼はただの護衛隊長でしかなく、次期女王と直接口を利く機会があるとは思っていなかったから、とまどうばかりだ。

「少将。ウィシテリア女王国はご存じの通り、陸の孤島。他国との交易には港を使うしかありません」
「はい」
 アルシェードは片膝をついたまま答えた。
「つまり、うちの国にはいい船大工がたくさんいますのよ。ですから、ご勘弁くださいね」
 何を?
 そうは思ったが許しがない以上、顔を上げるのははばかられた。だから彼は、彼女がドレスの下から鈍器を取り出したとき、その物を目の端に捉えはしてもそれが何かを知ることも、そして、シーモス公爵が今にも倒れんばかりに青ざめ震えたのも、全く見ていなかったのだ。


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