新任大公の平穏な日常
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【第二章 二年目の日常】
「どうぞ、ジャーイル閣下」
スメルスフォに招かれるまま、俺は彼女の居室にお邪魔した。
彼女と二十五人の娘が住むこの棟は、いってみれば予備棟だ。
執務室のある本棟を中心に考えると、西に俺とマーミルの暮らす居住棟が、そのさらに西北に建っているのが、この棟だ。
居住棟とは二階部の渡り廊下でつながっているので、スメルスフォたちはいつもそこを通って食事にやってくる。
俺がこの<断末魔轟き怨嗟満つる城>の敷地のなかで、日常足を踏み入れない場所は多い。むしろ、本棟と居住棟以外にはほとんど立ち入らないといっていいだろう。
はっきりいうと、全容は把握できていないと言っていい。
さすがに魔王城には負けるけど、大公城の敷地だってものすごく広いからね。隅々まで見て回る暇はないし。
なので、この予備棟に足を運んだのも、スメルスフォたちを迎える前に、設備の点検にきて以来のことだ。
あのときは、屋敷の維持のために配置されている使用人だけしかいなかったので、どこも死んだようにひっそりとしていたが、今は生活感にあふれ返っている。
それはそうだろう、なんたって、スメルスフォ筆頭に二十六人の家主を迎えたのだから。
スメルスフォの私室は、その予備棟の最上階、四階の最奥にある部屋だ。まあ最上階といったって、さらにその上、屋根裏には使用人部屋があるのだが。
予備棟とはいえ、ここでも同じく私室は居室と寝室の二間続きだ。さすがに居住棟の俺やマーミルの部屋よりは狭いが。
「少し、お待ちください」
すすめられるままソファに腰を下ろすと、スメルスフォは寝室に姿を消した。
さすがに自分の城のうちとはいえ、未亡人と二人きりというのは落ち着かない。いや、まあ、正確には二人きりじゃなくて、スメルスフォ付きの侍女同伴だが。
あと、双方の名誉のために一つ付け加えるなら、廊下に続く居室の扉は少し開いてある。
別にそこまで気を使うこともないんだろうが、一応だ。
侍女の入れてくれた熱い紅茶を、冷ましながら飲んでいると、スメルスフォが片手に乗るサイズの丸い瓶を持って出てきた。
彼女は正面に腰掛けると、その手に持った白い陶器の瓶を、俺の前に差し置く。
「こちらをどうぞ、お持ちください。ジャーイル大公に差し上げますわ」
彼女はそういって、雄牛の顔をかたどった持ち手を取って蓋を開け、中のものを示す。
「これは……?」
それは、黄色い色の軟膏だった。容器のふちすれすれまで入っていて、未使用品に見える。
「今となっては私が持っていてもしかたのないものですわ。もっとも、以前だってマストヴォーゼに必要だったことは、一度としてありませんでしたけれど」
スメルスフォの表情は、いつになく寂しそうだ。
「ジャーイル大公にも、今すぐには必要でなくとも、まだお若いのですから、お持ちになればきっとお役にたつこともありますわ」
なんだろう……今はいらないだろうが、将来必要になるだろうもの? この黄色い軟膏が?
若さが関係あるものか?
いや、年には関係ないのかな。
マストヴォーゼが使うような言い方だったから、女性に必要なものではなく、男性に必要だってことか? いや、でも、スメルスフォの言葉からすると、用いるのは彼女の方で?
「スメルスフォ、これ、なんです?」
俺はわからないことを無駄に考えるのは嫌いなのだ。
「いいから、今は黙ってお持ちくださいな。そのときがくれば、教えてさしあげますわ」
彼女は蓋を閉じると、瓶を俺のほうにずずいと押し出してきた。
いや、中身のわからないものをもらっても。
俺が困ったという表情のままでいると、観念したのかスメルスフォは小さなため息をつき、前傾姿勢になりながらこうささやいた。
「将来、ジャーイル大公が大切に思う方ができ、万一その相手の方の不貞に悩まれたとき、これを飲み物に溶いて飲ませれば、問題が解決するかもしれない、そういうものです。まあ、おまじないといいますか、気休めの道具といいますか」
…………?
え?
ん?
ちょっと待て。
それって、もしかして?
「ま……まさか……」
俺は震える手をその雄牛の瓶にのばした。
不貞を働く相手に飲ませて、何が解決するって?
まさかあの、ちょいちょい見かけた呪詛の正体、それがこれ、だとかいわないよな?
この、黄色い軟膏が?
「あら、ご存じでした?」
スメルスフォが意外だ、という表情をうかべる。
「でしたら、あまり詳しい説明は必要はありませんわね」
「いや、スメルスフォ。むしろ、詳しくききたい。これはまさか、呪詛の?」
「呪詛?」
彼女は小首をかしげた。
ああ、くそ、そうだ。
呪詛なんて言葉も存在も、誰もが知っているものではない。俺だってその状態を視たことはあっても、それが呪詛と呼び表されるのだと知ったのは、本を読んだからだった。
「相手の体調に直接影響を与える隠匿魔術を、呪詛というんですよ。いや、まあそれはいいとして。これはその……つまり、恋人や伴侶に少しの魔術と一緒に与えて、相手の意志を縛る……そういうものだと思っていいんですか?」
「なんだか、大げさなことをおっしゃるのね。ただの軟膏ですのに」
スメルスフォは困惑の表情を浮かべている。
彼女からすれば、単なるおまじないの一種なのか。本気で相手に影響を与えられるとまでは、知らないのか?
「確かにそれを飲ませれば、相手が自分以外の異性によこしまな気持ちを抱いた瞬間、浮気ができない状態になるとは聞いていますわ。もっとも、私は実際に使用したことがないので、効果のほどはわからないんですけど」
「どうやって使うんです?」
「こう、小さなスプーンにひとすくいして」
スメルスフォはまるでスプーンを持っているかのように、右手を動かしてみせる。
「思いを込めて見つめながら、対象者の飲み物に混ぜるのですわ。そのとき、心を込めた言葉を放つのですって」
「どんな言葉です?」
「そう、私がきいたのは、確か……」
彼女は右の頬に手をあてると、記憶を呼び起こすように視線を天井にめぐらせる。
「『許さない許さない許さない、裏切ったら酷い目みせてやるみせてやるみせてやる』でしたわ」
うわぁ……。
どん引き。
なにその直情的な呪いの言葉。
いろんな意味で背筋に冷たいものが走ったよ。
しかしなるほど、呪言をこめて相手にのませるわけか。
だが、込めた方も込められた方も、魔力の挿入がささやかすぎて、その存在に気づかなかったと。
確かに、対象者が多いとは思ったんだ。
特殊魔術というのは使える人間が限られるはずなのに、この呪詛だけは例を見つけようと思えば簡単に探し出せたからな。
「スメルスフォ。あなたがこれを作ったんですか?」
自作の方法が広まっているのか、あるいは。
「まあ、まさか。この軟膏は、私がマストヴォーゼに嫁いだそのときに、義母よりいただいたのですわ。息子が不貞を働いたら、これをつかうようにと。義父はたいへんな浮気性だったそうですので」
なるほど、マストヴォーゼにとって浮気症の父親は、反面教師となったんだな、って、まぁそれはいいとして。
まさか既婚者の間では、あたりまえのように広まっているのか?
母から娘に、または息子に、お守り代わりに渡すものなのか?
それとも、浮気性の伴侶に困った妻や夫の会、とでもいうものがあるのか?
「じゃあ、その……流通経路とか、どれくらい広まっているか、とかは……ああ、いや」
出所や認知度は気になるが、今はそんなことを言っている場合ではないのだ。追求はまた今度でいいだろう。
「その、これと逆の薬はないんですか? 解除薬……というか、快癒薬というか……とにかく状態を回復する薬みたいなものが。こんなもの、相手にのませて、それで終わりってことはないでしょう?」
使用者が呪詛と意識していないとしても、この薬を作った者はそうじゃないだろう。
スメルスフォはこくりとうなずいた。
「ええ、確かにございますわ。けれど、おまじないのようなものですし、必要とは思えませんが」
いや、あなたは使用したことがないから簡単に言うんでしょうが、意外にもこれ、けっこう効きますから。効果てきめんなところ、実際に確認しましたから。
そもそもこの呪詛の存在を知ったのは、浮気性の部下がある日を境に急におとなしくなった一件のためだ。女性と同席するたび、相手かまわずくどいていた男が、酒の席でもおとなしくしていることを不審に思った同僚がはやしたて、発覚した事実。
「最近女性をみた瞬間にお腹を壊すんです」と、最初は冗談ぽく言っていたのだが、その症状がだんだん傍目にもわかるほど顕著に現れ、それを数度繰り返した後にその男は女性恐怖症に陥り、最終的に妻一筋に落ち着いたのだった。
あれは大したものだった。
「解除する薬をください。むしろ、そっちをください。お願いします」
腐っても呪詛を解く薬だ。もしかすると、種類は違っても、マーミルにも効くかもしれない。
もしそれが効かなかったとしても、仕組みを調べれば、それを応用してマーミルに効く薬がつくれるかもしれない。
医療班でも毒の研究はしているようだし、サンドリミンに一度、相談してみないと。
「わかりましたわ。少し、お待ちください」
そういうと、スメルスフォはまた寝室へ入ると、今度はさっきより一回り小さな容器を手に戻ってきた。
「使用方法は同じですわ。ただ、今度は『私は心からあなたを許す』と言うんですのよ」
なるほど、呪詛をかけた相手の許しが必要なわけか。
こんな仕組みの軟膏を、一体誰がどうやって作ったのだか。軟膏自体からは、特定の魔術も魔力も感じないんだが。
「ありがとうございます。助かります」
とにかく俺は、スメルスフォからもらった二つの瓶を手に、意気揚々とマーミルの元へ戻っていったのだった。
その様子を見たスメルスフォが、俺に意中の相手がいる、それもどうやら相手は浮気性な女性であると、勘違いをしたとも知らずに。
***
俺が妹の寝室に勢い勇んで戻ると、ちょうどハエリーダー……もとい、サンドリミンがマーミルの様子を看に来てくれているところだった。
「どうだ、マーミルの様子は?」
「サンドリミンさんのおかげで、ずいぶんおかげんも楽そうですわ」
ハエリーダーが妹の熱をさげることで、アレスディアの気持ちも落ち着いたようだ。
少し照れたように咳払いをするサンドリミン。
さすがに、デヴィル族において傾国の美女とたたえられるアレスディアの褒め言葉は、男心をくすぐるものがあるのだろうか。
よし、もっと褒めてやれ、アレスディア!
っと。
そんなことを言っている場合ではないか。
「サンドリミン。いてくれてちょうどよかった。意見を聞きたいんだが」
俺は居室に彼を誘いだした。
「まず、最初に確認なんだが、“呪詛”という言葉を知っているか?」
ハエリーダーの赤い複眼がキラリと輝いたような気がした。
「わが医療班において、その存在を知らぬ者はおりません、大公閣下」
急にサンドリミンの声がこわばった気がする。
なんでいきなり大公閣下呼び?
さっきは「旦那様」って呼んでたよな?
「呪詛とは、相手の内部に入り込んでその身体を害する特殊魔術。本来なら、医療魔術で対応できなければならないものなのです」
「え? そうなの?」
「そうなのです、閣下。閣下の先ほどのお言葉を思い出すまでもなく、医療班の担当は外傷のみであると思われているのではないでしょうか?」
「あ、はい……」
その通りです。『医療班は外傷にしか対応できない』
大昔、うちの両親がいっていました。
それ以外の情報、つまり本で読んだ限りでも、医療魔術が対応できるのは、傷を治すとか骨をくっつけるとか、そういうものばかりだったし。
「実になげかわしいことです。医療班は、実はすべての体調不良に対応すべき組織なのです。特に魔術によって与えられた異常すべてに対応するのが、本来のお役目。ですが、誰からもそう思ってはいただけていない」
え? それって、単にハエリーダー……ごめん、サンドリミンの理想論じゃなくて?
「でも、本にだって」
「本!? 本がなんだというのです! 閣下、そんな無知に基づいたモノは捨てておしまいなさい!!」
うを!
なに、何で急に胸ぐらつかんでくるの、このおっちゃん!
つま先立ちでそんなことしたら、無駄に俺に体重がかかるばっかりなんですけど!
「周りがそういう、誤った認識を、いつまでも、あらためて、くれないから! 医療班は、実例を看られないし、経験も、つめないのだ!! その結果、対応不可などという、屈辱的な事態に! 私がどれほど、血反吐はく思いで訴えても!!」
ちょ……。
君が医療魔術に対して真摯に向き合っているのはわかったから、唾とばすのやめてくれない?
俺はサンドリミンの肩をつかんで、なるべく刺激をしないようにそっと離れさせると、一、二歩後じさって顔を拭いた。
「じゃ……じゃあ、呪詛にも対応できる、と?」
そう問うと、彼は急に肩を落としてうつむいた。
「い……いえ……」
そうしてがくりと、両膝を床に着き、泣き崩れるような格好で地面に伏す。
「ああああああ! 私の力が! 力が足りないばかりに!」
え、あの……ちょっと、落ち着いてください。
なんなのこのおっちゃん。
激しすぎて、怖いんだけども。
うわあああ、うおおおお、とか叫んでいるから、何事かとアレスディアまで顔を出してきたじゃないか。
「だ……旦那様? どうなすったのです、サンドリミンさんは」
「いや、ちょっとの間、うるさいかもしれないけど、気にしないでいいから」
「さようですか? でも、お嬢様のご容体を考えましても、あまり騒がしいのは……」
「そ、うだな。うん、大丈夫、黙らせるから」
俺がうなずくと、アレスディアは怪訝そうな視線をサンドリミンに向けながら、マーミルの寝室に引っ込んでいった。
「サンドリミン。もうちょっと、静かに」
俺は床に突っ伏すハエリーダーの背中をトントンと叩く。
「サンドリミン。頼むから」
だが、彼は象手を床にうちつけて叫ぶばかりで、ちっとも顔をあげようとしない。仕方ない。
「サンドリミン。ちょっと黙らないと、痛い目みてもらうかもしれないぞ」
頭の後ろでそうささやくと、ピタリと大人しくなってくれた。
「よし、じゃあ、座って話そう」
俺は彼を立たせると、居室の椅子に腰掛ける。
急に静かになったサンドリミンは、ガタガタと微かに震えながら、俺の正面に座った。
椅子の上なのに正座をして座るその姿は、ちょっと不自然だ。
しかもなんか、両手で自分の体をかき抱くようにしている。
「軍団……殲滅……壊滅……瞬殺……治療不可能……」
なんだかぶつぶつと、低い声でささやいている。
叫ぶのをやめたのはいいが、これはこれでちょっとうざい。
「医療班の存在意義については、今度じっくり聞かせてもらうよ。とりあえずはこれを見てもらえないか?」
俺が懐にしまっておいた軟膏の瓶を取り出すと、サンドリミンはビクッと体を震わせた。
だが、蓋をとって中を見せると、とたんに真剣な表情に変化する。
「こちらは? 何かの毒でしょうか?」
「呪詛の元だ」
そう言うと、彼は複眼をギラつかせた。
サンドリミンは軟膏を持ち上げると、瓶を左右にゆらしたり、傾けたり、自分自身が傾いたりしながら、熱心に見ている。
よくあの象手で、普通に持てるもんだ。デヴィルの面々って、案外いろいろ器用だよな。
「これが、呪詛の元……とは、旦那様、どういうことでございましょうか?」
ひとしきり眺め終わると、サンドリミンは瓶をテーブルの上に戻す。
「呪詛とは特殊魔術のはず……ですが、これはただの軟膏なのではございませんか? つまり、ただの物質では?」
「特殊魔術というのは、個人に付随する。そうだな?」
「ええ、そう思います、旦那様」
「だがこれに呪言――呪いの言葉を込め、特定の相手に飲ませることによって、相手の体内に障りをおこすことができる。つまり、特殊魔術の一端である、呪詛とおなじ効果をもたらすことができるんだ」
俺の言葉に、サンドリミンは目を見開いた。
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