古酒の隠れ家

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魔族大公の平穏な日常

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【第三章 成人式典編】

12.マーミルもジブライールも、なんだっていうんでしょう



「わかった。じゃあ、万が一、途中で帰りたくなったら、いつでも俺に声をかけるように……」
 ちなみに、お兄さまはデイセントローズに話しかけられるばかりで、とっくに帰りたい気分になっている。もっとも、本当に妹たちと一緒に帰ってしまうわけにはいかないので、我慢するしかない。
「大丈夫、お兄さま! もうふてくされたりしませんわ。せっかくわがままをいって、連れてきてもらったんですもの。ちゃんと、いろいろ学んで帰りますわ!」
 マーミルはぐっと俺に拳をつきだしてくる。
 えっと……何を学ぶつもりなのだろうか?

 これは兄として、妹の成長を喜ぶべきところなのだろうか?
 まあ、そうなのだろうが。
「まあ、気張りすぎないようにな……」
 なんだろう。
 素直に喜べない。

 少し気分を変えよう。
「ところで……さっきから、いい香りがするんだが、これは何の匂いだろう?」
 実は下に降りてきてからというもの、どこからか俺の好きな香りがふんわりと漂ってくる。香でも焚かれているのかと思って見回したが、そんな気配もない。
 妹からか? いや、妹の洗髪剤は俺と同じものなはず。
 じっと嗅いでいると、もやもやとしたこの気持ちがほぐれそうな、いい香りだ。なんだっけ、この匂い……。

「マーミル、香水つけてきたのか?」
「ええ、レモンの香りですわ!」
 妹はそういうと、胸を張って金色の巻き髪を肩から払った。その瞬間、確かに鼻をツンと刺激する香りが漂う。
 なんてこった……まだ子供だと思っていたのに。

「レモンじゃなくて、もっと甘い匂いなんだが……」
「あら、お兄さま。それはきっと、ジブライール公爵の髪ですわ。この金木犀の匂いのことでしょう?」
 金木犀。
 珍しくふんわりと巻かれたジブライールの銀髪を見ると、確かにマーミルの言うとおり、小さなオレンジの花が散りばめられていた。  そうか、どうりで嗅いだことのあるにおいだと思った。
「す、すみません……きつい、でしょうか?」
「いや、待って。払わないでくれ」
 ジブライールが髪を払う仕草をしたので、手首を掴んでそれを止める。せっかくのいい香りなのに、払ってしまうなんてもったいないじゃないか。

「もしこれが明日だったなら、ジブライールの迷惑を顧みず、何度もダンスを申し込んだだろうな」
 ぼんやりというと、ジブライールが驚いたような表情をした。
「えっ……そ……それは、また……なぜ……」
「なぜって、だって……こうだろ?」
 俺が左手を差し出すと、ジブライールは素直に自分の右手を重ねてきた。少し近づいて、次は左手を彼女の腰に回す。ダンスを踊るときの体勢だ。
「ほら、こうしたらずっと側で嗅いでいられるだろ? 動くとよけい、ふんわり匂うし。俺、金木犀の香りって、大好きなんだよ」
「だい…………」

「あーごほん」
 妹が、えらく低い声で咳払いして、俺をじろりと睨みつけてきた。
「なんですの、お兄さま。私が人前でお兄さまにくっつくのを注意なさったのは、他ならぬお兄さまではありませんでしたの? それも、ついさっき。それなのに、舌の根も乾かぬうちから、女性に抱きつかれるだなんて! それで許されるというんですの? それが大公の特権だとでも?」
「え?」

 妹に言われて気がついた。
 ジブライールがぷるぷる震えている。
 しまった!
 確かに、妹の言うとおりではないか。
 ここはダンスホールではないのだ!
 しかも、相手の許可もなく腰を抱くとか、俺はいったいなにをやっているんだ!
 いくらなんでも、気安すぎないか? 俺!

 俺は急いで体を離し、慌ててジブライールを見た。
「ごめん! その……つい……」
「い、いえ……」
 ジブライールは目をあわせてくれない。
 じっと、右下にそらして床を睨みつけている。熱光線が出て床を焦がしたら、しゃれにならない。そう危機感を覚えるほどだ。
 やばい。怒ってる。
 これはあれか、セクハラか?
 それともあれか、パワハラ?

「マーミルのいうとおりだ! ほんと、俺は何をやってるんだ……申し訳ない、ジブライール!」
「閣下! みんな、見ています。どうか、頭はさげないでください」
 さすがはジブライールさん。
 こんな時でも、冷静ではないか。
 確かに、ちょっと周囲からの視線を感じる。
 うん……自分のしでかしたことを考えると、確認したくはない。

「く……くっつかれるのは困りますが、そんなに金木犀の香りがお好きなら……」
 ジブライールはそう言いつつ、巻き髪をくるんくるんと指で巻いてから、上目遣いで俺を見上げてきた。
「ど……どうぞ……」
 そう言って、俺に銀髪の束を差し出してくる。

 ん?
 え?
 なにこれ?
「いや、あの……ジブライール?」
 意味がわからないんだけど。
 つまりそれは、髪を匂えってことか?
 あの、ジブライールさん……さっき貴女がおっしゃった通り、みんな見てるんですが……。

「お……お好きなのでしょう?」
 え……なにこれ。
 もしかして、あれか。
 俺のセクハラに対する、これが報復なのか。
 羞恥プレイというやつを、強いられているのか?

 そこまで怒らせたのだとしたら、拒否することなんてできないじゃないか……。
 いや、でも……女性の髪を手にとって匂いをかぐとか……ダンスよりハードル高いんですけど?
 俺は周囲に視線をめぐらせた。
 あれ?
 結構、見られてるかと思ったんだが、みんなこっちを見ていない。
 こ……これなら…………。

「お兄さま!」
 しかし、妹はご立腹だ。
 肩をいからせて腕を組み、右足をパンパン床にたたきつけて、ギリギリいいそうな勢いで歯をかみしめている。
 怒りを爆発させる妹、詫びを要求する部下。
 俺に、どうしろと……。

 妹よ、さっきはお前、俺の評判がどうとかいっていたではないか。
 今こそその気遣いが必要なのではないだろうか。

「マーミル」
 明るい声をかけてきたのは、次女のシーナリーゼだ。
「お兄さまを困らせては、いけませんわ。あなたは大公の妹として、ふさわしい態度を取ると誓ったばかりでしょう?」
 さすがは社交的な次女!
 大公の身内の先輩として、妹に心構えを説いてくれようというのだな。

「でも、シーナリーゼ」
「でも、は駄目よ、マーミル。大公というのは元来、傲岸不遜、傍若無人なものですわ。その身内だというならば、それを許せる度量を持たなくては」
 ……シーナリーゼさん。
 それ、ぜんぜん、フォローになってないです。
 そもそもなんですか、その大公に対する認識……君の父上は、おっしゃったのとは正反対の人物だったように思うのですが……。

 しかし妹は、その言葉に思うところがあったようだ。
「ぐぅ……」
 一言うなると、左足を軸にくるりと回転し、俺に背を向けた。
「ほんの一瞬なら、目をつむりますわ!」
 次にシーナリーゼは、長女やフェオレス、ヤティーンを引っ張ってくると、俺とジブライールを他の魔族の目から隔てるよう壁になるよう、間に並んで立った。
「さあ、どうぞ。これで他の目は気にならないでしょう?」

 え……なに、シーナリーゼ。
 そこまでして、俺に恥ずかしい思いを味わわせたいの?
 むしろ、かえって目立ってると思うんですけど……。
 もしかして、俺のこと、嫌いなの?
 やっぱり呪いがかかってるの?

「なんすかー? なにするんすかー?」
 ヤティーンが気の抜けた声で尋ねてくるが、無視だ。
「ヤティーン様! あそこにものすごい美女が!」
「え? どこどこ?」
 ヤティーンめ。
 すっかりシーナリーゼの手の上だな。
「私はただ、ここに立っているだけですので……」
 いや、フェオレス……そんな気遣いはいらない。長女も、なんでそこで顔を真っ赤にしながらうつむく。

 そして、正面には相変わらずのきつい目で、床を睨みつけながら、まんじりともせず髪を突き出すジブライールの姿が。
「そ……そんなに、お嫌なら……無理にとは……」
 声が震えている。
 やばい、これ以上ジブライールを怒らせるわけには!
「いや、いやいや。そうじゃないよ、別に嫌っていうわけじゃ……」
 俺は慌ててジブライールの銀髪を手にとり、周囲の視線がこちらに向いていないことを確認してから鼻先に寄せた。

 これでいいか?
 これでいいんだろ?
 超恥ずかしいんだが!
 傍目からみると、髪の匂いを嗅いでいると言うより、口づけているように見えるのではないかとか、つい考えてしまうのだが!

 もう許してもらえるだろうか?
 ちょっと泣きそうになりながら見上げると、ジブライールの顔が間近にあった。
 睫毛、長いな。
 いや、そんなことより、だ。
「もう……いいかな?」
 許可を求めようと口を開いた瞬間、ジブライールの体がふらりと揺れる。

 膝から崩れ落ちるジブライールの体を、俺は慌てて抱き留めた。

 ***

「ジブライール!?」
 閣下の驚いたような叫びが響く。
 何事かと思って振り返ると、俺の主君であるジャーイル大公閣下が、脳筋お馬鹿女のジブライールを抱きかかえているではないか。
「どうなさいました、閣下」
 フェオレスの奴が声をかける。
 こういう反応の早いところが、ジャーイル大公には気に入られているんだろうな。

「フェオレス。ジブライールが急に倒れて……」
 倒れた? 脳筋馬鹿が?
 分不相応に、頭を思考にでも使ったんじゃないのか?
「気付けに殴ってみますか」
 俺が拳をあげると、閣下は大いに眉をしかめられた。
「おい、ヤティーン。馬鹿を言うな」
 ジャーイル大公はジブライールを横抱きにする。

「とにかく、ジブライールを休ませてくる。悪いがアディリーゼ、シーナリーゼ……」
「私たちのことはお気になさらないでください。ジャーイル大公。ここには立派な護衛の殿方もいらっしゃることですし」
 にこやかに微笑んでそう返してきたのは、シーナリーゼだ。
「二人のことは頼むぞ、フェオレス、ヤティーン」
「お任せください、大公閣下」
 今度はフェオレスに先んじて胸をうち、返答する。

「くれぐれも頼む。たとえ大公であれ……いや、むしろ……」
 閣下はぐいっと俺とフェオレスに顔を近づけて、低い声でこうおっしゃった。
「たとえデイセントローズがやってきても、二人には絶対に近づけるな。指一本ふれさせんように気をつけてくれ」
「承知しました」
 フェオレスの奴が訳知り顔でうなずく。
 この要領のよさが、時々鼻につく。

「殴れば目をさますと思うけどなぁ」
 そう呟いた俺に白い目をむけて、ジャーイル閣下は颯爽と身をひるがえした。
「行くぞ、マーミル」
「はい、お兄さま!」
 小さなマーミル嬢が、ぴょんぴょんと飛び跳ねて兄君の後に続く。
 そうしてお二人は、回廊の奥に消えていった。

「閣下はジブライールに甘すぎるよな」
「特にそうは思わないが」
 俺の言葉に、フェオレスが苦笑を返してくる。
 まあ、お前もどちらかといえば、優遇されているもんな。
「そもそも、なんだってあいつ、急に倒れたんだ? 体調が悪いなら、出かける前にそう断っておくべきじゃないか?」
「あら。ジブライール閣下は、体調不良で倒れたわけじゃないと思いますわ」
 軽やかな声が俺の耳を打つ。
「では、なぜ倒れたのだと?」
 俺の問いかけに、シーナリーゼは意味ありげな笑みを浮かべた。

「私、直前のご様子をみていましたけど……無理ありませんわ」
 お前、わかるか? とフェオレスに目を向けると、奴は肩をすくめた。
 それはわかるのか、わからないのか、どっちだ。
「お慕いしている方のお顔が、あんな近くにあるんですもの。それこそ、唇が触れそうなほど近くに。貞淑な乙女なら誰だって、恥ずかしさのあまり、あんな風に気を失ってしまうものですわ」
「乙女!」
 俺は思わず吹き出してしまった。
「あの、好戦的な脳筋馬鹿が乙女!?」
「あら、ヤティーン様。笑うなんてひどい。ジブライール様の真摯な想いが、貴方にはわかりませんの?」
 どうやらシーナリーゼは、本気で言っているようだ。

 ジブライールの真摯な想い? お慕いしている?
 あの脳筋女が、ジャーイル閣下に気に入られようと頑張っていることは知っている。ヴォーグリム大公の時にはあんなに報告役や補佐的立場を、自らかってでることはなかったからな。
 だがそれは、同じデーモン族であるためだろうと思っていた。寵を望んでいるといっても、それはあくまで上司と部下との関係上でのことだと……。今までの冷遇を埋める意味も含めて。 

「まさか、ジブライールはジャーイル大公のことが好きだってのか?」
 シーナリーゼがあきれたような目で俺を見てくる。
「結構あからさまですわ。お二人がご一緒のところをほとんど見ることのない私でも、一目でわかるほど……そう思われません、フェオレス様」
「ええ。彼女は非常にわかりやすいですね」
 フェオレスがこくりと頷く。
 えええ。
 マジか……。

「なんか……気持ち悪い……」
 なんだろう、この気持ち……顔を合わせれば楽しく殴り合う仲だった幼なじみが、急に色気づいたことで異性だったのだと思い知らされて感じる違和感……みたいな?
 待てよ……ってことは、この事実は何かに利用できるんじゃはないか?
 例えばええと…………………………何も思いつかないけど。
 とりあえず、帰ったらウォクナンにもこの事実を教えてやろう、と、強く決意したのだった。

「そうか。だからジャーイル閣下もジブライールに甘いのか」
 ジャーイル閣下もまんざらではないということか?
「ジャーイル大公は、気づいていらっしゃらないと思いますわ。下手をすればヤティーン様……貴方より鈍そうですもの」
 俺は鈍いのか?

「でも、今、殴ったらって進言したら、すんげえ睨まれたんだけど」
「倒れたのがヤティーン様で、そうおっしゃったのがフェオレス様でも、やっぱりフェオレス様が睨まれたと思いますわ」
「私はそんなことは申しませんけれどね」
 フェオレスが苦笑を浮かべている。

「うらやましい……」
 ん? 今、誰か何か言ったか?
 ふとシーナリーゼの隣に目をやって、そういえばアディリーゼがいたのだと思い出す。
 二人は外見はそっくりなのに、雰囲気は正反対だ。
 次女は快活で話していても楽しいが、長女の方はうつむいてばかりでほとんど口もきかないから、存在自体を忘れてしまいそうだ。
 いくら美少女でも、こう陰気くさい顔をされては食指が伸びない。

 だが今は珍しく、彼女は顔をあげていて、ジャーイル閣下の消えた方向をじっと見つめている。

 待てよ。今、「うらやましい」
って言ったか?
 つまりジブライールがうらやましいってことだよな?
 それってまさか、彼女もジャーイル閣下のことを?
「アディリーゼ嬢もジャーイル閣下から、あんな風に抱きあげられたいとか?」
 俺が尋ねると、彼女は頬を真っ赤にして頷いた。
「そんな……私、そんな……」
 おお、この反応。
 俺って聡いじゃん! ぜんぜん鈍くないじゃん!

「心配だったら、様子を見にいってみるか? 俺がついていってやるぜ?」
 俺に任せろ、というつもりで胸をどんとたたく。
 気がついたジブライールが、ジャーイル閣下にどんな顔をするのか、俺も見てみたい。

 が、長女はますます顔中を真っ赤にして、うつむいた。
「ヤティーン。彼女をからかうのはやめろ」
「何怒ってるんだよ、フェオレス。俺は親切のつもりで……」
「それがよけいなお節介だというんだ」
 随分ないいぐさだと思ったが、フェオレスが不機嫌なのは珍しい。
 俺はそれ以上反論しないことにした。

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