2016年06月30日
竜の支配者
女王陛下と皇太子殿下
8.皇太子の恋慕
フラマディン・アインアードにとって、昨晩までここは滞在するのが不快に感じられる、ただの異国の地だった。そして昨日出会った王女は、姫と呼ぶにはとうてい信じがたい、獣のような女だった。少なくとも彼にはそう感じられた。
だが、今はどうだろう。彼の目に映るこの国のすべてが、きらきらと輝いて見える。
その輝きの根源は、サディーナ女王だ。シーモス公爵に借りた双眼鏡を覗いて彼女を見たその瞬間、彼は視線も心も女王に奪われてしまったのだった。
紅色のドレスに身を包み、優雅な笑みを浮かべるサディーナに。
アルシェードは皇太子の気持ちの変化に全く気付いていなかった。不機嫌が直ったのは、戴冠式を見て気分が高揚したからだろうとしか思っていなかった。
駆け出しでもしかねない上機嫌さで女王に近付く皇太子をみて、ようやく祝辞を述べる気になったのかと、ほっとしたくらいだ。
なにせ本来なら昨日、皇子は女王と昼餐を共にし、進物の目録を直接手渡し、祝辞を述べることになっていたのだ。その後の晩餐では、他国の要人たちとも正式な挨拶を交わせただろう。
そのすべてが、皇太子の体調不良のせいで、おじゃんになってしまっていた。
「あら、フラマディン皇子。今日はご気分もよろしいご様子ね」
女王は、彼女の行く手を阻むように立ちふさがった皇太子に、にこやかに声をかける。
ところが皇太子は、女王に一言も言葉を返そうとしない。業を煮やして思わず助け船を出してしまった。
「殿下、女王陛下にご祝辞を」
だが皇太子は、彼の言葉を全く聞いていないようだ。
「私は……」
アルシェードは皇太子の背後に立っていたから、彼がどんな表情を浮かべているのかまでは見えない。けれど、その声音は嫌に熱を帯びて聞こえた。
「私はどうすればいいのだろうか?」
「どうすればって……何を?」
女王の言葉遣いは王侯貴族にしてはぞんざいだ。いつもの皇子なら、そう声高に指摘するに違いない。
「それはもちろん、貴女を私の妃に迎えるには、どうすればいいのか、ということだが」
フラマディンの周囲から、まるで真空になったかのように音が消える。音だけではない。女王サディーナは目を大きく見開いたまま、凍り付いたように静止してしまった。
なおも、皇太子は続ける。
「私はどうやら、貴女に惹かれてしまったようだ。胸はどきどきするし、貴女に触れたいとも思う。今もなんと綺麗なまつげなのだろうと、手を伸ばしかけてしまった。こんな気持ちになったのは初めてだ。ぜひ私の妃にお迎えしたいのだが」
アルシェードは頭を抱えて座り込みたい衝動にかられた。皇太子の発言は信じがたく、あまりに愚かだ。
いったいどこの皇太子が、たったいま即位したばかりの女王に、面と向かって求婚するというのだろう。何か深い考えがあっての言葉だとは、普段の皇太子を見るにとても思えない。
女王の表情は凍り付いたままだが、その全身から怒りがふつふつと沸きあがるのが見えるようだ。
沈黙を破ったのはフォルム公爵の柔らかい声だった。
「フラマディン殿下は冗談のセンスをお持ちだ。さぞかし宮廷では女性におもてでしょう。なにせ、淑女方は機知に富んだ方との会話を好まれるものですから」
続いて、シーモス公爵も自分の立場を思い出したのか、慌てて取りなす。
「さあご一行。我々がここにいたのでは、いつまでも昼餐が始まりません。中に入りましょう」
「そうね。フラマディン皇子、今のお言葉は最上の祝辞としてお受けいたしますわ」
サディーナが笑顔を浮かべるが、どこか固い。
「私は冗談を言ったつもりは」
「まぁ、汗をかいてらっしゃいますのね。暑かったかしら?」
サディーナは懐からハンカチを取り出して皇子の近くに顔を寄せ、凍り付いた微笑を浮かべたまま小声でささやいた。
「いいから黙りなさい、このバカ皇子。アンタにはここがどういう場か、どういう儀式の最中か、まったくわかっていないの?」
「貴女の即位式かと」
「よ ぉ く で き ま し た 。
その通り、即位式よ! 誰がたった今、即位した女王に求婚するのよ。それも昨日会ったばかりの他国の皇太子が!」
「なぜ? 何かおかしいか?」
皇太子が振り返って、アルシェードに同意を求める。
「皇子」
アルシェードは首を左右に振った。それが彼にできる精一杯の返答だった。
「ねえ、グラフィラス少将。あなたのところの皇太子殿下は、どれだけ世間知らずなの」
アルシェードには、返す言葉がみつからない。
女王は珍種の生物を見るような目で、フラマディンをじっと見ている。
一方の皇太子は、昨日の憤りはどこへやら、サディーナの視線を正面から受けて頬を緩ませていた。
「いいえ、世間知らずですませられる問題じゃないわね! どこかで頭でも打ったんじゃないでしょうね。それとも昨日、何か悪い物でも食べて、精神が錯乱しているとか? そうでなければ、貴方は皇太子として、一体どんな教育をうけてきたのよ」
そこまで言われてやっとフラマディンは、どうやら彼女が冗談で言っているのではなく、本気で怒っているということがわかったようだ。
「私はしごく真面目なのだが」
何が問題なのか、全く分からない、という風にフラマディンは首をかしげてみせる。
諦めたように、サディーナはため息をついた。
「いい? 二つ言うから、どっちか選ぶのよ。一つ目、気分が悪くなったといって、部屋にこもる。二つ目、とにかく黙る」
「だが」
「だが、じゃない。しゃべるなら部屋に帰って侍女を相手にでもしゃべりなさい。言ったでしょう、黙るか帰るかだって!」
「昼餐の席で他人を無視するのは失礼だし、不自然ではないかと思うが」
さっきはさんざん話しかけられても無視していたくせに、とアルシェードは思っても、口にすることはできなかった。
「他の方々と話すのはいいわよ。ただし、私に話しかけないこと。私のことを、口にしないこと」
いつもなら、フラマディンは父王以外が自分に命令するのを許さない。けれど今は、何も気にならないようだ。女王の居丈高な態度にも、まったく気分を害した様子をみせない。それどころか、彼女の言葉を聞くその姿は、どこか嬉しそうでさえある。
フラマディンは少し考えたあと、小さく頷いた。
「昼餐の間だけなら」
その答えに、サディーナは眉をひきつらせる。
「陛下、とりあえずそれで良しとされませんか? これ以上みなさんをお待たせするのも、いかがかと」
周囲がハラハラと見守る中で、フォルム公爵だけはあくまで穏やかだ。その神経が羨ましいと、アルシェードは本気で思った。
「いいわね、約束よ。破れば昨日以上の目に遭わせてやるから!」
サディーナにじろり、と凄まれて、昨日の強引さを思い出したのだろう。フラマディンはアザの残った手をかばいながら、殊勝な面持ちで頷いた。
「わかった。約束しよう」
サディーナの口から、深いため息がもれる。
「フォルム公。今一度、国民に顔を見せてから、昼餐に参りましょう」
気持ちを切替えるように、サディーナはフォルム公爵に微笑んで手を差しだした。
心得たように公爵がその手を引き取るのを見て、フラマディンは少しだけ不機嫌な表情に戻った。
だが彼は、フォルム公爵にエスコートされて露台の端に向かった女王を、特に不平も口にせず大人しく見送った。
「殿下……」
アルシェードは、思い切って話しかけてみる。
「このような席で、あのような冗談は……」
「冗談ではないと、さっきも申した」
即答だ。
護衛隊長は頬を引きつらせる。
「本気だとおっしゃるのですか? 他国の女王への求婚が……」
「何度も確認するな」
皇太子はじろりとアルシェードをにらみつけた。
(バカなのだろうとは思っていた。だが、まさかこれほどとは)
アルシェードは頭を抱えて、思い切り叫びたい気分だった。
(なぜ、皇帝陛下もハフクレード閣下も、こんなおバカな皇子の参列を許したんだ! いや、いくらなんでも二人とも、ここまで皇子がバカだとは思っていなかったに違いない。
そうに違いない……)
真実がそうであったところで、今の彼には何のなぐさめにもならない。
「一体、なんで急に……昨日はあんなにも、サディーナさまにご立腹だったじゃありませんか」
ハフクレードを相手に話すような言葉遣いになってしまったが、それ以上この皇子に礼を尽くすのは無理だった。
「確かに、昨日はひどい姫だと思った。なんと乱暴なと、驚きもした。まるで獣のようだと。だが」
フラマディンは、サディーナのほっそりとした後ろ姿に視線を送る。
「今日、彼女を見て、私は心を奪われたのだ。あんなに美しい女性には、今までに出会ったことがない」
その答えを聞いて、アルシェードはがっくりと両膝をつきたくなった。
(つ ま り 顔 か よ !!)
十六の年に軍に入隊して十年あまり。どんな厳しい訓練にも音を上げたことのない彼だが、今、はじめて、泣きたい気分というものを味わっていた。