2016年06月30日
竜の支配者
女王陛下と皇太子殿下
20.皇太子の帰国
やれやれ、ようやく。
港の舳先に立って輝かんばかりに美しい白いウィシテリア城を見上げながら、アルシェードはため息をついた。
ここにきて、ようやく延期になっていた帰国の目処がたったのだ。
扉は直っているが、それが原因ではない。それどころか、大方の予想に反して罪人を船に捕らえているからですらないのだ。
出航の日が決まったのは、皇太子が帰ると言い出したからだ。
女王が目覚めた後、彼女の部屋から出てきたフラマディンは、いつになく神妙な顔つきをしていた。
自室に向かう足取りは緩く、時々ため息をついて立ち止まりしつつ、女王の寝室から持ってきた枕を抱きかかえたまま――後で聞くと、これに関しては一悶着あったらしい――、部屋にたどり着くと大人しく眠りについた。
彼の帰りを待ち構えていた侍女頭が、目を真っ赤にしながらあれやこれやと言い立てたが、焦燥しきったフラマディン皇子の耳には入らなかったようだ。
それもそうだろう。皇子はサディーナが倒れてからというもの、ほとんど眠っていなかったのだから。
ちなみに、アルシェードもその不眠に付き合った。
護衛のための控え室というのが女王の居間の隣にあって、彼はかなりの時間をそこで過ごした。なにせ今回の事件では、つとめを果たせなかった罪悪感がある。
兵長が自分の地位に嫉妬を覚えたのは勝手だし、気にも病んでいなかったが、それでも公爵の試合にあれほど夢中になっていなければ、もっと早くに暴挙を阻止できたはずだ。それこそ、椅子に斧はめりこまなかっただろうし、サディーナが怪我をすることもなかった。ウィシテリア国の王族が使用する場所を、血で汚すこともなかったのだ。
彼ですらそうなのだから、周りを警護していた部下たちが反応できなかったのも無理はない。皇子がいち早く暴漢に気付いたのは、彼が試合に興味を示していなかったからだろう。
一点に集中せず全容を把握しろ、と教えられ、実際にそうしてきた彼だったから、今回の失敗は堪えた。
だから彼は皇子に付き合って、不眠不休をつらぬいた。それでも食事はきちんと取ったし、着替えて身なりは整えていた。
さすがに護衛隊長としては、皇子のように一心不乱にソファにかじりついているわけにはいかない。警護の打ち合わせもあったし、文官の役目も負っていたから、ウィシテリアの役人とも種々の協議しなければいけなかった。それに、捕らえた兵長の尋問と真相の解明もある。
ある程度は副官に任せるにしても、どの仕事にも全く関わらないではいられない。
だが、たった数日寝ずに働いたからといって疲れはない。彼の取り柄は、自分で思っている通りに健康であることだった。周りに言えば、それではすまない丈夫さに思えるらしいが。
「降格ですむかな……」
事件のことは、すぐにウィシテリア全土に広まった。
本来ならオーザグルド帝国は、即位したばかりの女王を危険にさらしたことで、憎しみと反感を買ってしまったとしても仕方がない。だが、あの場で女王が怪我を悟られないよう振る舞ったこと、彼女によく似たセレナが女王の代行をつとめたこと、それにフォルム公爵の取りなしが上手く作用しあって、この事件は他国の皇子の命を自国の女王が救った美談として、好意的に受け入れられている。
だが、それはこの国での最悪の事態を避けられた、というだけのことだ。
帝国に帰れば彼は護衛指揮の責任者として、なんの処罰も受けないではすまされないだろう。それは当たり前のことだと、覚悟はしている。だが、その処罰の重さは、おそらく皇帝の機嫌の良し悪しで天と地ほども違うことだろう。
とにもかくにも、自室に戻った皇子は、それから死んだように丸一日眠りこけた。
次の日の朝、妙にすっきりした顔で起きてきて、侍女や護衛に帰国の決意を語ったのだ。
だから今、彼は出航に問題がないかを確認するために、港にいるのだった。
***
それから二日後の、午前。
フラマディンとサディーナは東棟の玄関ホールの長椅子に、並んで座っている。
今まで他国の要人を送るときにそうであったように。
「足の具合はいかがだ? まだ、痛むのか?」
「ああ、ありがとう。大丈夫よ。たぶん医師がいうより、早く治ると思うわ」
私のことだから、と彼女は小声で呟く。
「だが、あまり過信はなさらぬよう……御身は大事な方であるから……」
誰にとって、とは言わなかった。
「大事な身なのは貴方もでしょう。あんなこともあった後だし、身辺にはお気をつけくださいな」
フラマディンは寂しそうな微笑を浮かべる。
「我が国の事情で、貴女まで危険な目にさらしてしまったことは、なんとお詫びをしてもしきれない……」
秘書官から調査の報告を受けた後、サディーナは改めて皇子からも事件の真相を聞いていた。帝国からの結論も同じ、単独での衝動的な愚行の結果、というものだったが、オーザグルド帝国が正直な報告をあげてきたのかは、彼女にはわからない。
「本来なら我が国へ貴女をお招きしたいところだが、無理は言うまい。ただ、これだけはお聞きいれいただきたい」
そう言って彼はおもむろに手袋を脱ぎ、素手の右手でサディーナの左手を取った。
「私が帰国した後に、貴女に対して私的な書簡を送ることを、どうか許していただきたい」
フラマディンからの私的な書簡、それはつまり、恋文を送ると宣言していることに他ならない。
サディーナがため息をついたのを見て、フラマディンの表情が曇る。
「でも、返書はお約束できないわ」
我ながらつれない態度だと思うのに、それでもフラマディンは嬉しそうに笑って見せた。
「かまわない。それと、あともう一つ」
彼はそう言って、さっき脱いだ手袋をサディーナの手のひらに置く。
「貴女に受け取っていただきたい。過剰な期待をしているということではない。ただ、私の気持ちを知っておいていただきたいだけだ」
平民であれ、貴族であれ、王族であれ……オーザグルドの国民が身につけたものを相手に渡す時の意味は、たった一つだ。
手紙と同じような返事をしそうになったサディーナは、さすがに無粋さを自覚して口を噤んだ。
「私は、この国に来れて本当によかったと思う。貴女に出会い、貴女を失う恐怖に直面して初めて、自分の愚かしさを自覚できた。そして、自分がすべきこと、望んでいるものを知れた。もちろん、まだまだわかっていないことの方が多いと思う……けれど、今からはもう少し……貴女に認めてもらえるような男になる努力ができると思うのだ。だから、きっと……」
フラマディンはそれきり、黙りこくった。
サディーナも先を促すこともなく、沈黙に付き合う。
「フラマディン殿下。そろそろお時間が」
誰かの静かな声が出立を促す。
フラマディンは立ち上がり、それから再びサディーナの両手を取って彼女の前に跪き、その手の甲に口づけた。
「しばしのお別れを、女王陛下。再びお会いできる、その時まで」
サディーナは笑顔を浮かべる。それは彼が得られるとは思っていなかった、優しい微笑みだった。
「ええ、楽しみにしています」
その答えを聞いて、フラマディン・アインアードの瞳は天上の綺羅星の如く、輝いたのだった。