2016年06月30日
竜の支配者
女王陛下と皇太子殿下
28.深夜の訪問1
「お兄さまたちには、わたくしがこんなことを明かしたなんて、絶対に内緒にしてくださいね」
王城の桟橋から古城に向かって移動する小船の上、ジャンヌ・マリエットはまるでいたずら盛りの子供ような表情を浮かべて、こっそりとフラマディンに耳打ちしてきたのだ。
***
フラマディンは暗闇の中、枕を抱きながらじっと壁の絵を見つめていた。
彼が抱いている枕は、いつぞやサディーナの寝室から持ち出したものだ。その持主を毎夜のように思いながらも、今一歩の決心がつかない。
何度も寝台から立ち上がりかけては座り直し、を繰り返している。
そうして何度目かの動作の末に、彼はようやく思い切って枕を寝台に置いて立ち上がった。
つばを飲み込む音が、部屋中に響いたような気がする。
暖炉の左横に背の低い書棚があり、その上に横長の風景画がかけられている。フラマディンはその壁の絵に、こわごわと手を掛けた。
そうして彼は、ジャンヌ・マリエット姫から教わった、王妃の寝室へとつながる秘密の通路の扉を開けたのだった。
エヴァンテ王国の寝台は、フラマディンの国のものよりウィシテリア王国のものに近い。国王や王妃の部屋に置かれたものといっても、それほど広くはない。
その中央に、うずたかく積まれた枕に埋もれるようにして、サディーナが眠りについていた。
暑いのかむき出しの両腕は掛け布団から出ており、行儀良く胸の前で組まれている。それとは対照的に、いつもはきっちりとまとまっていることの多い銀糸のような髪が、乱れて肩や腕にかかるさまが艶めかしく感じられた。
すやすやと眠るその姿を見て、フラマディンは軽く落ち込む。
少し寝顔を見られれば、それでいいと思っていた。だがそれは自分をもだます建前でしかない。実際に寝姿なんて見てしまえば、自制が難しいだろうことは薄々わかっていたのだ。
わかってはいたが、ジャンヌ・マリエットから通路のことを聞いてしまった後では、それを利用しないではいられなかった。サディーナと二人きりになれる機会なぞ、この先二度ともてないかもしれないのだから。
だから彼は、いっそサディーナが起きていてくれればいいのにと願っていた。
だが、現実には彼女は燭台の明りが頬を照らしても、健やかな寝息をたてるばかりで、一向に目覚める気配がない。
フラマディンは、本能と理性の狭間で叫び出したい気分だった。
燭台をそっと床に置くと、その横に姿勢正しく正座する。
「駄目だ、絶対に駄目だ。これ以上、サディーナどのに嫌われるようなまねは、断じてできんっ!」
寝台のすぐ脇でがっくりと両手を床についた彼の姿は、端からみればさぞ滑稽だっただろう。万が一、ルイザにでも目撃されたなら、怒り狂うだろうことは想像に難くない。もちろん、怒りをぶつける相手はフラマディンではなく、彼にそんな態度を取らせているサディーナだ。
「いや、しかし、ちょっと触るくらいなら…………馬鹿か、私は! ちょっと触るってなんだそれ、理性が吹っ飛ぶわ! だいいち、そんなことをしたらサディーナどのを起こしてしまうに決まってるし、でも起きて欲しい気もするし! ああああああ、一体どうすればいいんだ!!」
頭をかきむしりながら上体を起こすと、そこには瑠璃色の双眸に軽蔑の光を宿して彼を見下ろすサディーナの姿があった。
「何してるの、貴方……」
フラマディンは一気に煩悩が消し飛ぶのを自覚した。
彼は青ざめつつ、ぐっと握りしめた拳を両膝の上に置いてうつむいた。
「も……申し訳……ない…………」
大きな大きなため息が、頭上で一つこぼれた。
***
「で、どうやってここに入ったの?」
ガウンを羽織り、腕を組みつつ椅子に腰掛ける女王の前で、皇太子は正座したまま床の上に視線をさまよわせていた。
「いや、それは……その……」
「露台をつたってきた……わけじゃないわよね?」
国王と王妃の部屋の露台の間には居間に付随した露台があるが、どれも独立していて距離がある。よほど身軽でも、道具もなしに飛び越えては来られないだろう。
それに外は相変わらずの大雨だ。
「まさか、護衛たちが貴方をここに招き入れた訳じゃないんでしょ?」
皇太子の武官であるアルシェードはともかく、そんなことは竜騎隊隊士が許すはずがない。
「もちろん、それはない……」
「じゃあ、どうやってこの部屋に来たの?」
「それはつまり……」
フラマディンは正直に壁の絵を指さした。
サディーナは椅子から立ち上がり、三本立ての燭台を手に取って壁の絵に近付く。
国王の部屋とは対称に、暖炉の右側に置かれた本棚の上に、やはり横長の絵が掛けられている。
彼女がその絵に手を掛けると、少し浮いていた絵が左を軸に回転し、穴の存在を明らかにした。
「城に隠し通路はありがちだけど……」
サディーナは穴を燭台で照らしながら、ため息をついた。
「よくもまぁ、こんな狭いところを通ってきたわね」
「いや、狭いのは入り口だけで、奥に入ると意外に……」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
サディーナは柳眉を逆立て、フラマディンの前に立ちふさがる。
「問題は、どうして貴方がこんな他国の城の隠し通路を知っているのかということ!」
「それは……」
ジャンヌ・マリエットに聞いたのだとは、さすがに暴露できなかった。
「偶然……そう、聞いたのではなく、偶然みつけたのだ! 素晴らしい絵だと思って、手に取って見てみようといじっていたら……」
声からだんだんと勢いがなくなる。
サディーナがその言葉を信じていないことは、表情をみれば一目瞭然だ。
「へぇ、そう……ジャンヌ・マリエット姫に教わったの」
「な、なぜそれを……」
反射的に応じてしまってから、フラマディンは自らの口をふさいだ。
「他に誰がいるの。城の抜け道なんて、一部の者しかしらないだろうし、そんな重要なことをあの二人の王子が貴方に言うはずもない。もちろんその重臣たちもね。そうなると、あの無邪気な姫しかいないでしょ」
「姫はその……私の貴女に対する想いを知って、親切にも協力して下さろうと……」
「へぇ、貴方を私のところに夜這いにこさせるのが、親切な行いなわけね?」
「よ……夜這いだなんて、私はそんなことをするつもりは……」
考えもつかない、と言い切れないところが、男の悲しい性だ。
「なんだってこう、迂闊なことをするのよ……」
サディーナは燭台を側の円卓に置き、再度椅子に腰掛けた。
「とにかく、いいからもう帰って。ちゃんと来た道からよ! この件は、また明日ジャンヌ・マリエット姫を交えて話し合いましょう。この分なら、姫は仮病でしょうし」
「…………そんな風でいいのか……?」
「いい訳ないじゃない! 明日きっちりと三人で話し合いましょう」
「違う、そういうことじゃない」
フラマディンは勢いよく立ち上がり、サディーナの座る椅子の肘掛けを両手で掴んだ。
「何故そんなに簡単なんだ! 貴女は本当に、これがどういうことか、わかってるのか?」
「ちょ……大声を出さないでよ!」
覆い被さるような勢いで迫るフラマディンの口を、サディーナは両手で塞ぐ。
雨音が激しいとはいえ、あまり騒がしくすると居間の護衛が異変に感付いて、部屋にやってきかねない。やましいことは何もないとはいえ、いくらなんでも二人が薄着で同じ部屋にいるのを見られるのは、例え護衛にであっても好ましいことではない。彼らはとりあえずは黙っているだろうが、いらぬ誤解を招く心配がないとはいえない。
だが、サディーナの狼狽にひるむ様子もなく、フラマディンは怒ったような表情で、彼女の腕を掴んで自分の口許から離した。
「普通は見知らぬ男が自分の寝ている間に部屋にいるのを見つけたら、声を上げて助けを求めるものだろう!」
「なによ、護衛を呼ばれたいの?」
「いや、呼ばれたくないが……」
「でしょう? 貴方にだって、皇太子としての体面があるんだから、そんなこと……」
「だから、その平静さがおかしいと言っているのだ! わかっているのか? 男に寝室に踏みいられたんだぞ? 体面なぞより、もっと自分の身を案じるべきだろう!」
「案じてないわけじゃ」
「とてもそうは見えない!」
フラマディンの迫力に押されたのか、珍しくサディーナは口ごもり、逡巡を見せた後に呟いた。
「貴方は別に、知らない男じゃないでしょ」
「……えっと、それはつまり、私になら寝顔を見られてもかまわないと……」
「違うわよ! なぜそうなるのよ!」
サディーナはフラマディンの顔を両手でぐいぐいと押して彼の体を椅子から離れさせると、その支配から逃れるように立ち上がった。
「知らない男性じゃないって言っただけじゃない! だいたい、なぜ私がこの件で、貴方に怒られなきゃいけないのよ!!」
「サディーナどの、声が大きい」
今度は逆に、にやけた顔のフラマディンに注意を促されて、サディーナは頬を引きつらせている。
「いいからさっさとここから出て行って! やっと寝られたと思ったのに……」
「眠れなかったのか? まさか、私のことを想って」
「そんな訳ないでしょう!」
「枕が変ると眠れないタイプだとか?」
もしそうなのなら、自分が持っている枕を返そうと思っているフラマディンだった。
「残念ながら、そんな繊細じゃないわ」
「では、心配事でもあるのか? エヴァンテ王国との関係が、上手くいっていないとか?」
むしろ個人的な感情から、上手くいってくれない方がフラマディンには喜ばしい。
「おあいにくさま、変らず良好よ。そんな事じゃないわ」
「じゃあ、一体何?」
「どうして、貴方にそんなこと言わなきゃいけないの」
「言わなくてもいいが、聞かないでは帰らないよ」
「は?」
じろり、と睨まれたが、フラマディンはひるまなかった。
サディーナは彼に引く気がないと察して観念したのか、諦めたように口を開く。
「問題はこの降りすぎる雨よ」
「大丈夫、サディーナどの。いくら雨がひどくても、この城の中まで浸水することはない」
「そうじゃないの。心配なのは、ウォーリスのこと……」
サディーナは両膝の上で組んだ両手を、固く握りしめる。
「フォルム公子?」
「あの子は大丈夫かしら……水竜の背に乗って帰っているのだもの。こんなに降っていたら、河は荒れているでしょう……」
確かに湖から河に出るとき、フォルム公子とそれに続く数人の海竜隊隊士たちは水竜の背に乗っていた。だが船も同伴していたし、疲れるか飽きるかすれば、船に乗り換えるものと思っていた。いくらなんでも、エヴァンテからウィシテリアまでずっと、水竜の背に乗ったままということはないだろう。竜も疲れるが、それ以上に人間は大変だ。
雨が降ってはなおのことだった。
「隊士たちと一緒になのだろう? 船もあるし、どこかで避難しているだろう。荒れた河を進むわけはないと思うが」
「でも、あの子はちょっと、無謀なところがあるから……それに、竜騎隊の隊士は皆あの子には……」
フラマディンの存在を忘れたように、サディーナはじっと床の一点だけを見つめて押し黙った。
「地図……なら、あるが、見てみるか?」
「え?」
「この周辺の、簡単な地図。どこか休むところがありそうか、確かめてみるのは? 気休めにしかならんかもしれんが」
「地図……」
サディーナはベッドから立ち上がった。
「どこにあるの? 見せてくださる?」
「私の部屋に。取ってこようか?」
「そうね……いいえ」
サディーナは逡巡した後、きっぱりと答えた。
「私がそちらにいくわ」