古酒の隠れ家

大きな国の 小さな歴史

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戴冠式と陰謀
 

-1-

 グール王の国葬は、密葬から7日後に行われた。
 数日前の『都督大将軍』の凱旋式と、規模は全く同じ、いやそれ以上だとしても、民衆の活気に雲泥の差がある。彼らは同じように沿道を埋め尽くしはしたが、それも新しい王を愛するが故であり、先王を偲んでのことでは決してない。
 憎悪を抱きこそすれ、誰が悼んでやるものか。多くの民衆はそう思っていることだろう。
 万一、この国葬を行うのがディシウスでなく、バディオスであったなら、進んで街道を埋め尽くすことさえ、彼らはしなかったろう。棺に石を投げたい気持ちを抑えたのは、ひとえに新王の名誉をおもんばかってのことだ。
 飾りだけは豪奢な空の棺は、王都の主な街道を護衛の兵士にかこまれて練り歩き、やがて王都一の聖堂の前でようやく降ろされた。
 数多くの参列者──今度は全ての貴族・諸侯が招かれた──に見守られる中、棺は聖堂の奥で待つディシウスのもとに、ゆっくりと運ばれていった。

「いやいや、よかったですねぇ」
 今度は自身も参列者の最前列に加わりながら、ランメル候は右隣のジヴダル公に囁いた。
「あんな事があったもんだから、今日も何かあるんじゃないかってビクビクしてたんですけど、何事もなくすみそうですねぇ」
 ジヴダル公は軽薄な様子のランメル候を、じろりと睨み付けた。ジヴダル公に快く思われていないことを、いつもはっきり態度に出されているのだから気付かない訳はないが、ランメル候は全く気にした様子もない。
「最後まで気を抜かれるな。またこの間のように、影が悪さをしに表れんとは言えないからな」 「ジヴダル公は心配性ですねぇ。大丈夫ですよ。今日はほら、例のクレト伯イスタ殿も、ああして儀式の最初からきれいな旋律を奏でていらっしゃいますし」
「あんな音楽に何の意味が、力があるというのだ。魔術を秘めた旋律だと? それを何を持って証明できる!」
「おやおや、ジヴダル公は魔術に懐疑的なんですね。イギュアを打ち倒しただけでは、納得いきませんか?」
「魔術全てを否定するわけではないが、私は今のところ、ほとんどそういうものに関わったことがないのでな。それてとも、この間の影の一件がなければ、全てを否定していたやもしれんが」
 二人の会話をランメル候の左隣で聞いていたリクセン公は、内心自分の隣の少女に気をつかっていた。二人の会話が聞こえて、気を損ねるのではないかと。
 リクセン公の横にいたのは、話題の主の妹、未だジヴダル公に快く思われてもいない『都督大将軍』イミテだった。
 だが、実際のところ、イミテには人の会話に耳を傾けている余裕はなかった。このところの環境の性急な変化について行きかねている。いままで、アトレイトの配下にあって給料をもらい、護衛兵の隊舎の一室に兄共々間借りする身分だったものが、イギュアを討ち果たして帰ったその日から、念願であった実父に存在を認められ、その館と地位を自分たちが受け継いだのだ。父・クレト伯の屋敷は、彼女ら兄妹が想像していたより遙かに広大で豪奢だった。彼ら二人は、貴族の生活が、庶民の想像の限度をはるか超えて贅沢なものであることを、たった一日の数分の間に嫌と言うほど思い知らされたのだ。
 だが、そんな感傷をゆっくりと抱いている暇もない。兄と共に『都督大将軍』を引き受けてしまった手前、やらなければならない仕事がたまっていた。もちろん、直前までただの一兵卒だった彼女に、いきなり国家の大多数を率いる将軍の仕事が、すんなりこなせるわけはない。元々、望んでその地位についたわけでも無かったから、寝耳に水の心境だ。
 それで、暫くはつい先日までの上司、アトレイトが彼女の補佐をつとめることとなった。と、いってもアトレイトも近衛隊の長官として、なにかと忙しい。だから、彼女にはかつて『都督大将軍』をつとめていたこともある、老齢の武人モードグルーヴ公と二人の学者が常に付き従って、彼女と兄に、必要な知識を教授してくれていた。公の教育などはまさにたたき込むと言う言葉がふさわしい厳格なもので、気の強いイミテは意見があわずしょっちゅう衝突している。が、兄のイスタは何に置いても要領が良く、公にも学者にもすこぶる評判がよかった。
 実際指揮すべき兵士には、兄妹のどちらも意外や反発を食らうことはなかった。もっとも、兵士達とすれば、今はまだ品定めをしているだけなのかも知れない。
 しかし、義務感から自らの仕事をこなそうとしていたイミテだったが、実際のところ、彼女は自身の立場に不満を抱いていた。彼女は本当は今も、周りの状況そっちのけで凝視している相手、アトレイトの部下という立場を守りたかったのだ。
 アトレイトはむろん、彼女のそんな思いを知るはずはない。彼は、確かに器用で色々なことにめざとかったが、こと、女性からの熱い視線に込められた意味を知ることだけは、誰にも増してうとかった。
 彼の頭にあるのはいつも、ディシウスが野望を叶えるために自分がどう動けばいいか、ということだけであり、そのことに関連する感情なら、他人からのものでもいくらでも察することができたのだが……イミテの感情は純粋すぎて、かえってアトレイトには伝わらないのだ。
 それぞれがいろんな思いを抱く中、葬儀は滞りもなく進んでいった。王都のほとんどの神官が集まり、今や誰にも偲ばれない暴君のために、クレト伯イスタの奏でる音にあわせて、声を揃えて経を詠んでいる。
 ディシウスは、その様子を棺に最も近い場所から見守っていた。
 彼は特別、バディオスの影を警戒してもいなかった。イスタの音楽に対する信頼感が、余裕をもたらしたというのではない。彼の魔力に対してアトレイトが保証したからには、その真実性に対してジヴダル公のように疑ってみたりはしなかったが、実際のところ、その魔力が頼りないものだったとして、それはそれで一向に構わないのだった。
 彼は、自分に魔力は全くないと知っていた。
 それでも魔術師からの悪意を心配したことはない。彼らが害そうとするより、自分の野心を叶えようとする、その想いの強さで全ての害意をはねかえせると信じているからだ。どんな魔術も、自分に対して実害を被ることは、彼の考えではあり得なかった。
 主人がこんなだから、アトレイトは万が一に備えて、色んな防護策を考え、手配しなければならない。
 彼らはお互いの性質を理解し合い、認め合っていたから、決して相手の思想を無理にただそうとはせず、ただ、相手の判断を受け入れあったのだ。むしろ、快く。
 葬儀は、形式だけは盛大に、だがやや時間的には短く、昼を少し回ったぐらいで終了した。先王の棺──以前に密葬を行っているのは周知の事実なので、元々この棺は空であると、参列者は認識している──は十日の間聖堂に置かれ、最後の三日間は庶民も間近で先王のために祈ることが許される。
 もっとも、グール王のために祈りに訪れる者はそう多くはないだろう。
 盛大であればあるほど、その葬儀はどこか寂しさを漂わせていた。



  -2-

 午前とはうってかわって午後からのプログラムは、国民の、地を震わさんばかりの大歓声で幕をきった。
 先王の葬儀に続いて行われたのは、新王の正式な戴冠式であった。場所は同じ大聖堂で、だが、今度は聖堂の奥深くではなく、国民によく見えるようにという配慮の元、聖堂の前に露台が用意された。
 こういう国民に対する気遣いができる所も、ディシウスが愛される要因の一つだ。もっとも、ディシウスは彼の国民が思うほど、善良でも公正でもないのだが。
 広場を埋め尽くした国民の見守る中、ディシウスは颯爽と儀服をまとって現れた。白を基調とした、王が戴冠式で着るには少々質素な服だったが、彼の自信に満ちあふれた、且つ優雅な表情と動作のために、誰一人新王の容姿に見惚れない者はいなかった。

「さすが、ディシウス陛下は容姿端麗な上に、自分の見せ方というものをよく心得ておいでですこと」
 世にも艶容な声でディシウスを評したのは、数ある貴婦人の中でも美貌を誇る、アルトディナだ。
 少し、ウェーブのかかった黄金色の髪、見るもの──それが男であれば、決して捉えて離さないであろう、どこか妖美な青い瞳、つんと、けれど厭味ではない筋の通った鼻、思わずむしゃぶりつきたくなるような、濡れた唇、常に手を差し出して支えてあげたくなるような、華奢な細身の身体。  どこをとってもアルトディナは魅力的で、まさに傾国の美女といった妖艶さだ。
 その彼女は、しかし、武骨で女性にはとんと人気のない、リクセン公の婚約者だった。彼女を一目見て恋に落ちたリクセン公が、駄目元で彼女に結婚を申し込んだのだ。誰もが彼の失恋を予想していたが、以外やその申し出はすんなりと快諾されたのだった。自信の無かったリクセン公は、何度も自分の頭を壁にぶつけて、夢でないことを確かめたという。
 もっとも、結婚の申し込みは直接本人にされたのではない。公式な、と考えられているように、父親のワルトムーナ伯爵に申し込まれたのだ。相手が権勢並びなき公爵の一人とあっては、伯爵が断れるはずもない。もし、直接申し込まれていたら、アルトディナは果たしてリクセン公のプロポーズを受けただろうか。
 彼女が今、妖艶な笑みを向けている相手は、婚約者のリクセン公ではない。彼よりはよほど彼女に釣り合う美少年だ。どこか意地が悪そうな表情が、彼の魅力を損ねていたが、そこがまたいいという貴婦人も大勢いる。父親がその不肖さを嘆いているジヴダル公の子息、マイオンだった。
 アルトディナはマイオンのことを「私の仲のいいお友達」と、堂々とリクセン公に紹介しているが、二人がただの友達ではないのは傍目にも明らかだ。にも関わらず、どうもリクセン公はそのことに気付いていないようだ。鈍いのか、劣等感から目をつぶっているのか……そこの所がジヴダル公にはわからなかった。
「けれど、どうもこういう儀式は退屈でかなわない。君と抜け出していけたらいいんだが、戴冠式じゃそうもいかないしね」
「あら、そんなことおっしゃって、退屈なのはどうせ今だけでしょう? 儀式が終わって、宮殿に場所が移ったが最後、あなたときたらあちこちの貴婦人にお声をかけるのに忙しそうで……」
「そんな、すねた様なこと、言わないでくれ。実際君は、婚約者殿の相手もしなけりゃならないし、その間、僕だって退屈だもの。そりゃ、他の人相手に踊ったりもするさ」
 ジヴダル公が側で聞いていたら、いい加減にしろと注意したろうが、二人には幸いというか、父は参列者の最前列に居る。参列者の中程にいる彼らの会話など、その耳にかすりもしていないはずだ。
 だが、二人の会話は全く誰にも聞かれていない訳ではなかった。
 司伝長官のランメル候が弟のように可愛がっている、パトリオノ伯が彼らのすぐ後にいて、聞き耳を立てていたのだ。彼は兄とも慕うランメル候と同じで、他人の事に対してえらく興味を抱いていた。と、いっても、この〝兄弟〟の他人に対する興味の示し方は、似ているようで本質的に意味がまったく違っていたのだが。
 パトリオノ伯が他人に興味を抱くのは、実に純粋な野次馬精神のなせる技だ。もっとも、それにランメル候が違う意味をもたせつつもあったのだが、基本は常に「面白そうなことを探している」だけだった。以前の発言でディシウス達にいい印象を与えることに成功していた彼だったが、本来はまだまだ子供気分がぬけない、マイオンと同じ少年だったのだ。
 だから、ランメル候ならただ聞き耳を立てるだけで終わるその状況で、臆面もなく
「お二人は仲がおよろしいんですね」
 などと言ってしまうのだ。
 ビックリしたのはマイオンとアルトディナだった。振り向くと、パトリオノ伯がまったく悪意のない笑顔を浮かべている。
「ええ、そりゃあ、大切なお友達ですもの」
 いち早く落ち着きを取り戻したアルトディナが、悩殺せんばかりの笑顔を2歳年下の少年に向ける。
「公子がうらやましいです。こんな、我が国一番の美女を友人にもてるだなんて」
 意味ありげな言い方に、マイオンはあからさまにムッとして見せたが、アルトディナの方はその形容がいたく気に入ったらしく、パトリオノ伯に微笑んで見せた。
「まあ、私を友人にするより、あなた様のような魅力のある方を友人にもてる者のほうが、いくらも光栄と言うものですわ」
「では、そうおっしゃっていただけるのでしたら、是非私とも良い友人づきあいをお願いしたいものです」
 この、パトリオノ伯の勢いづいた言葉に、マイオンは少しつり上がった目で、一つ年下の少年を睨み付けた。
「ええ、こちらこそ願ってもないことですわ」
「おい、アルトディナ!」
 マイオンが横の美女に何か言わんとした瞬間、マイオンの隣にいた彼女の姉、ヘルミナが咳払いをして三人を睨み付け、注意を促した。マイオンは、父に対して忠実この上ないこの姉が、大の苦手だった。
 彼は舌打ちを一つして、パトリオノ伯から視線を前方の儀式に転じた。
 アルトディナも、冗談めかしてパトリオノ伯に笑って見せた後、彼女の「仲のいい大切なお友達」にならって前を向いた。
 式典は、ディシウスが大神官によって王冠を戴く、その場面にさしかかっていた。
 アトレイトがその気配を感じたのは、ディシウスの輝く黄金の髪の上に、王冠が載せられようとしている、まさにその時だ。
 遙か遠方の丘の頂で、何かが日の光に反射して光ったと見えたその瞬間、彼の身体は反応していた。
 壇上にかがむディシウスに、全速力で駆け寄り、飛びつくようにして身を伏せる。その、彼の頭上ギリギリを、轟音を発して何かが過ぎ去った。
 一瞬の出来事に、広場はしんと静まり返る。
 甲高い叫び声があがった。
「ティルトミストの丘だ!」
 大声で叫び、アトレイトは第2弾を警戒して、ディシウスを守るようにその前にはだかった。
「アトレイト、大丈夫だ」
 身を起こしながらディシウスがアトレイトの肩を引く。
「陛下! お怪我は……!」
 ジヴダル公が慌てて二人に駆け寄る。
「心配ない。大丈夫だ。アトレイト、お前も……」
 ディシウスは立ち上がり、ティルトミストの丘を見上げた。
「もう、撃ってくる気もないだろう。それにしても……」
 ディシウスは、振り返って自分を貫くはずであったものを見やった。
 すさまじい勢いで遙か丘から飛んできたものは、幼い子供の腕程の太さの矢だ。
「大した矢だな。これをあの丘から撃つとなると、とても一人では無理だろう。かなり大きな弩でもつかったか……」
「すでに遅いとしても、人をやって調べてみます」
 細腕ながら、イミテがその弓を深く突き刺さった石の床から軽々と抜いた。
「どうなさいます? 戴冠式を、このまま続行していいものでしょうか?」
 民衆は、口々にディシウスの安否を訊ねている。
「大事ない。戴冠式はこのまま続ける。皆、所定の位置に戻ってよい」
「しかし、陛下…!」
 ジヴダル公が、眉間にしわを寄せつつ進み出た。
 だが、ディシウスは、彼を心配して周囲に集まった貴族・諸侯の面々をかき分けて、彼の治るべき民の前に姿を現した。
「大事ない。私はこの、優秀なる近衛隊長官によって、間一髪命を救われた」
 ディシウスはアトレイトを振り返って、微笑んだ。
「戴冠式はこのまま続行する。大丈夫だ」
 ディシウスが朗らかな力強い笑顔で民衆に微笑みかけると、不安なざわめきは、喜びの歓声に変わった。
 何事もなかったかの様に、彼は一同をそれぞれの配置に戻すと、再び神官に戴冠式を続行するように命令する。
 暫くの混乱の後、ディシウスの戴冠式は再開され、聴衆が息をのみ見守る中、今度は中断されることはなく終わった。
 誰もがディシウスを安じていたためか、よりいっそうディシウスは堂々と、王者の自信に輝いて見えた。実際、殺されかけたというのに、眉一つ動かさない豪胆さには誰もが感心するしかない。
 まさに、アルトディナの言うとおり、彼は「自分の見せ方」を心得えていた。
 実際の所、狙われたことに対する恐怖や動揺はディシウスには全くなかった。生来、そういう感情に疎い、とさえ言っていいかもしれない。
 逆に、アトレイトはよりいっそう緊張感を感じていた。ディシウスに、髪の毛一筋の傷をつけることも、彼には許されない。
 だが、ディシウスの予測通り、それ以後戴冠式を中断するようなトラブルは起きなかった。

 王冠がディシウスの頭上に輝き、王錫がその手に握られるのを、国民は憧憬と希望をもって見守った。



  -3-

 大方の予測に反して、ディシウスを「ティルトミストの丘」から狙った人物は、ただの一人で、それも弩などを使ったわけでもなく、普通よりはかなり大きな弓を手で引いたものだった。
 男自身も、王国中を探しても、まずそんな大男はいまいというほどの巨体だ。
 彼は自分の放った矢が標的を捉えられなかったことを知ると、小さく舌打ちして緩慢な動作で丘を下った。
 その巨体が目立たないはずはなかった。
 彼は、丘を下り、数時間後に宿屋で食事をとっていたところを、目撃情報をもとに謀反人を捜索していた兵士に見付かり、大人しく捕縛された。

「で、この男が陛下の命をねらった謀反人だというのか?」
 王宮の遙か東、『断罪の塔』で、『都督大将軍』イミテは自ら、大男を尋問していた。なにせ、ただの罪人ではない。国王に弓引いたという、反逆罪に値する罪人だ。質素な部屋の中には彼女が座っている椅子が一脚あるだけで、大男は冷たい石の床に正座している。二人の他に、そこには例の3人の補佐官と、5人の兵士がいた。
「確かに、大した巨体だな」
 イミテは、特に抵抗もせず大人しく両手を後に縛られている男をジロジロと見た。
「本当にお前が、あの矢をティルトミストの丘から撃ったというのか? あんな遠くから、あの矢をか」
 イミテの質問に対して男はずっと黙りこくっている。
「もし、そんなことが可能だというのなら、お前は人間では無いのだろうな。怪物としかおもえん」
「その華奢な体躯で魔術師イギュアを討ち果たしたあんたこそ、俺なぞよりよっぽど怪物じみているだろう」
 はじめて聞く大男の声だ。
「ふん。やっと口を開いたと思ったら、この私を怒らせたいのか? 余計な事はいい。お前が陛下のお命を奪おうとした、その訳を言うがいい」
「言ってもいいが、条件がある」
「何だ? 条件とは?」
「なに、簡単なとこだ。あんたと二人きりで話したい。他の奴の前では言いたくない」
 イミテの眉がかすかにつり上がる。
「貴様、自分の立場がわかっていない様だな」
 モードグルーヴ公が、ドスの利いた声を放った。
「このまま拷問にかけて、無理矢理吐かせてやってもいいのだぞ!」
 大男はわざとらしく、ため息をついた。
「わかってねぇのは、あんたらさ。そんなコトしたら、せっかくの重要な情報がパアになるぜ? っていうか、それ以前にお前ら死ぬよ? 俺に殺されて」
「貴様、いい気になるのもたいがいにしておけよ!両手足を縛られて、何が出来るというのだ!」
「こんなもん」
 大男は薄く笑った。めきっと鈍い音がして、男の身体が一回り大きくなったように見えた。
 その瞬間、ぶちっぶちっという音とともに、彼の自由を奪っていた両手足の紐がバラバラと地面に落ちた。
「なにっ?」
 さすがのモードグルーヴ公も、青ざめている。
 男はゆっくりと立ち上がった。
 天をつくのではないかと思われる巨体に、兵士達も息を飲むばかりで一歩も動けない。
 イミテだけが、表情ひとつ変えず男を見上げていた。
「……いいだろう。聞いてやってもいい」
「しかし、大将軍!」
「モードグルーヴ公。ここは私に任せていただきたい。心配はいらない。皆と共にさがっていてください」
「大将軍!」
 イミテは大男をじっと睨んで、もはやモードグルーヴ公には応じなかった。
「ほらよ、将軍サマがそういってるんだ。とっとと出ていきな!」
 面白そうに大男は兵士達を追い払い、抵抗しようとした公までも軽くひょいと掴んで部屋の外に投げ出した。学者達はもちろん、進んで自分から出ていった。
 大男は鍵を閉め、イミテに向かい合った。
「で、お前の情報というのは何なのだ?」
 平然と、イミテが訊ねる。
「全く、さすがに大将軍だけあって、肝の据わった女だ」
「余計なことはいい。情報とやらを言え」
「だが、バカだな。本当に俺がいうと思ったか?」
 大男はにやつきながら、彼女に突進した。
「バカはお前だろ。全く芸がなさすぎる」
 イミテは大男の巨躯を軽くかわした。
 男は器用にも、壁にぶつかる前に身を翻し、またもイミテに突進する。
 そのたび、イミテは何度も男を交わし、また男は身を翻した。
「いい加減、諦めたらどうだ。すばしっこいのはみとめるが、俺のスタミナにはかなわないぜ?」 「井の中の蛙大海を知らず、だな」
 イミテは高く舞い上がり、男の後頭部を勢い良くけった。
 今度こそ、男は壁に激しくぶつかり、部屋中に轟音が鳴り響く。
「将軍! 無事ですか?」
 外からヤイヤイとかけられる声に、しかしイミテは答えなかった。
 ゆっくりと、男に近づく。
 大男はピクリとも動かない。
 と、信じられない俊速さを発揮して、大男は立ち上がり、彼女に覆い被さった。
「大した蹴りだ。あながち、イギュアを倒したというのも嘘でもないらしいな。だが、もう観念するしかないだろう。所詮、女なんてものは……」
「くだらん輩だな。貴様」
 平然と、イミテは言い放ち、ぐっと足に力を込めた。
「無理だ、無理。女の力でこの俺を……?」
 男の余裕は最後まで続かなかった。
 次の瞬間、彼の身体は彼自身の予測をはるかに裏切る位置にあった。
 大男は宙に浮いていたのである。
 華奢な少女の一蹴りによって。
「なにっ?」
 あまりの驚愕に、大男は受け身さえ取れず床に崩れおちた。今度は本当にこたえた風に、苦痛を浮かべてイミテを見上げる。
「いいか、一つ教えといてやる」
 イミテは腰の剣を抜き、男の首筋に白刃の刃をぴったりとつけた。
「お前みたいな腕力だけの輩は、自信過剰に陥りやすく、相手の力量を見分ける力に不足しがちだ。体格で自分との優劣を決めるな。ましてや、性別などで判断するのはあまりに愚かだ。もっとも、そんな忠告、今死にゆくお前に必要ないだろうがな」
「いい女だな、あんた」
 剣を突きつけられているというのに、大男は笑顔を浮かべて言った。
「だが、残念ながら、並の剣では、俺の肌を傷つけることはできん」
「並の剣ではだろ?」
 しごく冷酷に、イミテは言い放った。
 はじめて、男の額に大粒の汗が浮かぶ。
 男はとっさにイミテの長い髪を、力任せに引っ張った。
 だが、彼女は眉を寄せただけで、その頭は1㍉も動かない。
「気が済んだか?」
「ホントに化けもんか……!」
 大男は青ざめた。しかし、その口元にはまだ微笑が浮かんでいる。
「わかった。本当のことをいう。頼むから、命は助けてくれ!」
 イミテは無言だ。
 その時、鍵の開く音がし、扉が開いた。

「大丈夫ですか?」
 大音響を響かせて入ってきたのは、モードグルーヴ公だ。
 イミテは罪人の大男の首に剣を当てたまま、振り返りもしなければ答えもしない。
 むしろ、モードグルーヴ公は目を見張った。自分が思い描いていた場面と、まったく逆の状況が展開している。
 彼はたじろぎ、今更ながら自分が補佐することになった少女の、人間離れした力をかいま見て、自分の認識の甘さを知ったのだった。
「おおい。助けてくれよ。殺されちまう!」
 大男が情けない悲鳴をあげる。見下ろすイミテの目には、なんの感情の変化もあらわれていない。 「大将軍」
 モードグルーヴ公は、初めて彼女に対して言葉に実感をこめて呼んだ。
「どうか、その手を動かされませんよう……」
「こんな男は、長生きさせるだけ無駄だ。どうせ、本当の事を言いもすまい」
 冷徹な言葉に、男の顔面が蒼白になる。
「言う! ちゃんと言う!!  だから、助けてくれ!」
「剣をひいてください」
 落ち着いた声がかかる。
 それまで、無表情だったイミテが、その声を聞いて驚愕の表情で振り返った。
 大男は彼女の動揺を見逃さなかった。思い切り、体を起こして彼女の手から剣を奪い、はね飛ばす。
 イミテは宙で自分の失態に対して舌をうち、それから優雅に着地した。彼女の一連の動作は、美しい銀色の猫のようだ。
 大男が鼻息も荒く、彼女の剣を手に立ち上がる。
 しかし、イミテは大男などには目もくれていなかった。彼女が着地してまず見たのは、静かに声を発した青年、近衛隊長のアトレイトである。
「隊長……どうして、貴方が……」
「私はもう、貴女の隊長ではないでしょう? 将軍」
 アトレイトはイミテににこりと微笑んでみせた。
「助かったぜ。まったく」
 大男のセリフには実感がこもっていた。広い額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「あのイギュアを倒しただけあって、化けもんだよ。その女は!」
 今度は感情も露わに、イミテは大男を睨み付けた。
 その鋭い殺気に、大男ばかりかモードグルーヴ公までが背筋を凍らせる。
「私の剣を返せ。お前ごときが扱える代物ではない!」
「言ってくれるじゃねぇか」
 大男の青筋が、怒りで浮き上がる。
「私も忠告するよ。彼女に剣を返せ。剣をもっただけでなんとかなる力量の差ではない」
 アトレイトの辛辣な忠告は、かえって男のプライドを刺激した。
「そんなに大したもんか、俺がためしてやるさ!!」
 イミテの剣を振りかざしつつ、大男は突進した。体躯に似合わぬ素早い動作で、大男は彼女の体の芯を捉え、剣を振り下ろした。
 轟音と共に、剣圧によって削られた床の一部が舞い上がる。
 モードグルーヴ公は、男の力のあまりのすさまじさに声を失った。
 しかし、イミテにはその剣の切っ先すらかすらなかった。紙一重の距離でかわしたのだ。
「そんな乱暴な使い方で、私の大事な剣が傷ついたらどうしてくれる!」
 彼女は大男の懐に飛び込み、その鳩尾に肘を食い込ませた。それこそ、目にも止まらぬ早さで。  男が吹っ飛ぶその瞬間に、彼女は自分の剣を取り戻した。
 巨体が壁にぶち当たると、建物全体が揺れたような気がした。
「やはり、ろくな男ではない」
 イミテは男に歩み寄り、剣を構えた。
「う……」
 男はうっすらと目を上げ、さすがに今回ばかりは観念をした。しかし、その瞬間。
 アトレイトがイミテの隣に立ち、その手を掴んで彼女の動作を止めたのだ。
「隊……アトレイト殿……」
「イミテ殿の気持ちは分かるが、ここは抑えてもらえませんか? この男には聞きたいことがある」
 イミテはアトレイトを見、大男を見た。
「貴方が………近衛隊長殿がそう仰せでしたら……。不本意ですが、やむを得ますまい」
 イミテは剣を降ろし、静かな動作で鞘にしまった。
「大人しくした方が身のためだぞ。アトレイト殿は、私などより遙かにお強い。お前がどれだけ抵抗しても、絶対にかなうことはない」
 イミテの脅し文句を受けて、大男は驚愕の瞳を青年に向けた。
 以前の彼ならその言葉を鼻で笑ったろうが、イミテの実力を身をもって知った今は、青年の見かけでその力量を過小評価しようとはもはや思ってもいなかった。
「誰か、椅子を」
 部屋の外に向かってイミテが叫ぶと、外から部屋を恐る恐るうかがっていた兵士たちは、一斉に身を翻した。
「モードグルーヴ公」
 イミテは呆然と立ちつくす公に、小声で訊ねた。
「アトレイト殿が何故、ここに?」
 モードグルーヴ公は夢から覚めたような表情でイミテを見やる。
「私が……鍵をとりに行きましたら、アトレイト殿が丁度塔においでになられて、どうやら尋問の経過をおたずねにこられたようです。ですので、至急、おいでいただけないかとお願いした次第です。貴女が、てっきりあの大男に乱暴されていると思ったものですから…」
「……立場をお考え下さい。アトレイト殿は近衛隊の長です。都督大将軍が、与えられた仕事をこなせず、近衛隊長に泣きついたなどと噂になっては、威信にかかわります」
 いつもとは逆に、イミテに諭されるモードグループ公だった。
 もっとも、彼女の本心は、軍の威信などには無かった。ただ、アトレイトに頼るのが恥ずかしかっただけなのだ。



  -4-

 アトレイトの立ち会いの元、大男に対する尋問がイミテによって行われた。すっかり意気消沈した、どころか、すがすがしくさえ見える表情で、聞かれることにはきはき答えていく。あんまりすんなり話すので、イミテなどはその真偽を疑ったほどだ。
 尋問は3時間に及んだ。
 彼らが大男を塔の地下牢に閉じこめ、塔をでた頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。イミテはアトレイトと王宮に向かう。
 大男から聞き出した情報を、彼らの主君に伝えるために。

「で、やはり首謀者はバディオスか?」
 アトレイトとイミテが謁見室にはいるなり、挨拶もそこそこにディシウスは身を乗り出して二人に聞いた。
「なぜ、そのことを……」
 真実を言い当てられ、イミテはうろたえた。ディシウスが何かしらの魔力をもつとは聞いたことがない。
「やはり、か。他にそれだけのことをしでかす者もおるまい。で、その男はなんと言ってる? なんと、兄上に命じられ、何をなし、これからどうしたいのか?」
「はい…」
 イミテはうろたえたまま、男から聞き出した情報を語りだした。アトレイトも同席していたとはいえ、尋問の責任者は自分だ。報告は義務だろう。
「男は直接バディオス殿下にあったと申しております。男は王都から西に3日ほどいった村の出で、そこの酒場で毎夜のように飲んでいたところ、見かけぬ老人に声をかけられたそうです。酒を奢ってもらったこともあり、その老人がさそうままに、彼の宿についていったそうです。老人の部屋には大きな姿見がありました。そこに、バディオス殿下のお姿がうつっていたとか……。老人は驚く男に話し始めました。この鏡に映っておいでなのは、我が国の第一王子、バディオス殿下であると。北都においでのバディオス殿下が、側近のガスティアの魔術によって、お前にお目通りしているのだと。老人は続けます。お前はバディオス殿下によって、英雄となるために選ばれた人物である。もしも、バディオス殿下の命令を聞くなら、殿下は必ずやお前をこの国の重鎮にと取り立て、貴族の位を与えるだろうと。ただし、断ればイギュアの魔術によって、お前は死を賜るのだと。そして、鏡の中のバディオス殿下が言ったそうです。ディシウス陛下を殺害せよ、と」
 ディシウスがアトレイトを見る。その目が、「兄上がやりそうなことだ」と言っているようだった。
「その男の名は?」
「は?」
「その、私を撃とうとした男の名は?」
 イミテはその質問が以外だった。自分を殺そうとした、しがない村の男の名など、王が聞いてどうするというのか。
「は……その男の名前は、ギーボでございます」
「では、続きは、〝男〟ではなく、ギーボと呼んで説明してくれ」
「はい……」
 イミテは不思議に思いながらも続けた。
「老人は戴冠式で、陛下を殺害するようにと言ったようです」
「ではなぜ、ギーボは一回で諦めたのだ? あの距離でなら、何度か撃てたはずだ。まあ、何度撃っても結果は同じだったろうがな」
 ディシウスは意味ありげにアトレイトを見た。優秀な近衛隊長を信頼しての言葉であるのは、誰が見ても明らかだった。
「そもそも何故、ギーボはバディオスの命に従おうと思ったのだ? ガスティアの魔力を恐れたからか?」
「いいえ、それがあの男……ギーボは、面白いと思ったそうです。自分の手で歴史が変わるのも、変わらないのも……。自分の矢で倒れるようなら、陛下もそれまでの男だと。陛下にどれほどの強運があるのか、それを確かめたかったなどと、生意気なことを申しまして」
「では、私はギーボに試されたわけだ。で、試験には合格したのかな?」
 ディシウスはさもおかしそうに笑った。どういう神経をしているのだろうと、イミテは思わずにはいられなかった。
「まったく不遜な男です。結果いかんによって、自分の道を決めるつもりだった。わざと自分は捕まってやったのだ。陛下のために、と」
「私のためとは?」
「それが……」
 イミテは続きを口にすることをためらった。
「ギーボは、陛下の配下に加わりたいと……自分が加われば、百人力だとか申すのです。全く、ふてぶてしすぎて何も言えません」
「配下に加わりたいだと」
 ディシウスはそういって、高らかに笑った。
「ギーボとやら、天をつくほどの巨漢だときいているが、どれほどの者だ?」
「確かに、動きは鋭敏で、力に関しては我が国でも有数の強さであろうと思われます。百人力というのもあながち誇大な表現ではないでしょう。しかし」
 口ごもったイミテの後を、アトレイトが継いだ。
「あの外見であの動きをするとは、確かに予想外の事でしょう。大口を叩くほどの実力は十分にあると思われます。あの男は貴重な戦力にあるのではないでしょうか」
 イミテはアトレイトの言葉に驚いた。
 今の彼の言い方では、ギーボを仲間にせよと言っているようなものではないか。自分の主君を殺そうとした男を、彼は許せると言うのだろうか?
「ああ。そうだな。とりあえず、イミテの配下に一兵卒として加えてはどうかな?」
 ディシウスの言葉に、彼女はさらに驚愕した。
 ギーボを自分の配下に? それを本気で言っているのだろうか、国王陛下は。とんでもない!
「お待ち下さい。ギーボめは、国王陛下に文字通り弓引いた逆賊です。それを、赦しておやりになると言うのですか?」
「私を殺そうとしたとか、そんなことは大したことではない。ようは、その男がどれだけの力量を備えているかということだ。バディオス兄上と、トルディウス兄上がこのまま私が王位についていることを黙って受け入れる気がないのは自明の理だ。戦力は多いに越したことはない」
「しかし……やつが裏切って、また陛下のお命を狙われたらいかがします」
「その時は、この、アトレイトと、それからイミテ。そなたが守ってくれよう? ま、私とて、タダの木偶の棒ではないつもりだ」
「それは……しかし…………」
「臣下の裏切りをいちいち案じていては、キリがない。その男は裏切らんさ。万一、今の供述が全て嘘で、バディオス兄上の忠実な下僕であり、我が軍の内部に入り込むための言葉であったとしても、私はイミテの配下にあるうちに、ギーボの気も変わると思っている。なにせ、イミテ。そなたは自覚があるのかどうかしらないが、人心を掴むのに長けているからな」
「そんな……とんでもございません。私など……」
 イミテは慌てて首を振った。
「しかし、その点ではさらに私は誰にも負けていないつもりだ。自惚れだと思うか?」
 身を乗り出して無邪気に訊ねるディシウスに、イミテはたじろいだ。
「私の配下にいることと、他の二人の配下にあることと……どちらが得策か、実感してもらおうと言うわけだ。ギーボにチャンスをやってくれ。イミテ」
「は……国王陛下が……そう仰せでしたら……ギーボは私の直属の隊に配属します」
「頼む」
 ディシウスは身を引いて、にっこりと微笑んだ。

 ディシウスが、戴冠式をぶちこわそうとした大罪人、ギーボを許して配下に加えたという事実は、瞬く間に王都に広まった。人々は、新王の寛容さに感動して、ますます彼らの王を讃えた。
 一方で、公式に発表は無かったものの、首謀者と噂されたバディオスの評判はガタ落ちだった。
 もっとも、その〝噂〟(しんじつ) は伝令長官のランメル候によって故意に流されたものだ。
 大店の若旦那風の雰囲気をしたランメル候は、身分を隠して街に出ては、自分の流した情報の効果を自分の耳で確かめに行くという、貴族にしては変わったことをする人物だった。公式行事にも表立って出て、結構人目にさらされているのに、身分がばれたこともない。
 おかげで彼の補佐官は、他の諸侯にランメル候がどこにいるのかと訊ねられても、答えられないことがしばしばあった。街にでていると知ってはいても、とてもその事実を告げるような勇気は補佐官にはなかったのだ。

「同席してもよろしいですか?」
「鮫肌亭」という食堂兼酒場でランメル候が声をかけたのは、齢80に届こうかというほどの、白髪頭の老人だった。
「ええ、どうぞ」
 老人は愛想良くにっこりと微笑んで、彼に席を勧めた。
「何かお悩みでもあるんですか?随分と眉間に皺を寄せてらっしゃった……」
「なんですって?」
 老人は苦笑を浮かべてランメル候を見やった。
「新興宗教のお誘いなら、ご勘弁こうむりますよ」
「あはは。それっぽいですか。そんなんじゃないから安心して下さい」
 給仕が酒を2杯、運んでくる。うちの1杯を、ランメル候は老人に差し出した。
「貴方の武勇伝を、ぜひお聞かせ願おうと思いまして。魔術師イギュアの弟子としての、ね」
 老人は弾かれたように立ち上がった。
「きさま、一体……」
「ギーボに陛下の殺害を命じたのはあなたですね。色々お伺いしたい事があるんですけど、一緒に来てもらえませんかね?」
「っ……!!」
 老人は年には似合わぬ俊敏な動作で踵を返し、食堂をあたふたと出ていった。
「やれやれ。鬼ごっこなんて、趣味じゃないのに……」
 一つ、わざとらしいため息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。
 2杯分の勘定をすますと、大して急いでない様子で店を後にした。
 王都はランメル候にとっては庭のようなものだ。案外、街のみんなも気付いていて、知らないふりをしているのかもしれない。
 老人がどれだけ必死に逃げても、ランメル候から逃げきるのはとうてい無理だった。
 後を必死の形相で振り返り、息も切れ切れに入り組んだ路地を駆け抜ける。人気のない路地の突き当たりで、老人はようやく息をついた。
「そんな無理したら、心臓に負担がかかりますよ?」
 降ってわいた声に頭上を仰ぎ見る。突き当たった塀の上に、ランメル候の飄々とした笑顔があった。
「く…」
 再び踵を返した老人の進路を、ランメル候が空から降りたって防ぐ。
「観念してくださいよ。悪いようにはしませんから」
 言葉とは裏腹に、顔には悪意たっぷりの笑顔が浮かんでいる。
「いい気になるな、若造!」
 老人が後じさったとみるや、その手から赤い波が、ランメル候めがけて放たれた。
 ごおお、と、轟音をすら放ち、自分めがけてくるその波を、ランメル候は身をそらしてよけた。
 音にすれば〝ひょい〟という感じだろうか。
 気の抜けるほどあっさりと。
 それでいて、さらに飄々と、
「ああ。びっくりしたなぁ」
 などどカラカラ笑っていうのだから、老人が気分を害するのもわかる。
「魔力なんてなくてもね」
 ランメル候は老人の背後に回り込むと、枯れ枝のような両手を右手で一掴みにした。
「こうしちゃえば大丈夫ですよね。貴方ぐらいの魔術師相手なら」
 ランメル候が老人の体に左手をまわした瞬間、老人の体が前のめりに倒れた。
 左手で老人の全体重を支えながら、彼は事態を悟った。
 彼の腕の中で、老人は事切れていた。
 自ら命を絶った相手に対して、彼は語る言葉を持たない。
 ランメル候は、老人の遺体を街の神殿に預け、手厚く葬ってくれるように頼むと王城に向かった。


 老人は直接は語ってくれなかったが、それでも彼には十分な情報を残してくれたのだった。

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